地域の歴史秘話を求めて~日本全国探訪記~
旅と歴史が好きで、コロナ前は、休日は日本各地の史跡を巡り、地域に眠る歴史秘話を探求しておりました。現在は家庭を持ったため、マイペースに首都圏の史跡を巡っています。当ブログでは、現地で学んだ地域の歴史をまとめております。「地域の歴史を知ることは、地域の魅力を知ること」(※カテゴリの凡例について ★:一旦探訪完了 ▽:探訪中 無:未探訪)
37204-8 香川県善通寺市
香川県善通寺市
■2018年1月14日(日)
【歴史】
善通寺は、空海が生まれ育った地である。
空海は佐伯家の三男として、佐伯家の邸宅に産まれたと伝えられている。
佐伯家は、西讃岐の有力な豪族であった。
佐伯家の邸宅跡には、現在、善通寺の御影堂が建てられている。
空海は、佐伯家菩提のため、807年に善通寺を建てた。
現在の善通寺は西院と東院に分かれているが、当時の寺域は東院だった。
東院には、空海が産まれた時には繁茂していたと伝えられている巨大な老楠がある。
また、東院には、空海の両親を奉公している佐伯祖廟がある。
1898年、四国全域を管区とする陸軍第11師団が善通寺に設置され、善通寺は軍都になった。
善通寺に第11師団が設置されたのは、予定していた高松から反対の声が多かったこと、当時の善通寺に広大な土地があったこと、善通寺には讃岐鉄道が開通しており交通の便が良かったことなどがあげられている。
第11師団の初代師団長は、乃木希典であった。
乃木は、任期中、第11師団司令部と丸亀の第12連隊との中間の距離に位置する金倉寺の客殿に居住した。
客殿は9月の第1土・日曜日以外、非公開である。
また、金倉寺の境内には、乃木将軍妻返しの松(現在は2代目)がある。
静子(乃木の妻)が乃木に面会するため金倉寺を訪れたが、何故か乃木は面会せず、途方に暮れた静子が佇んだ松と伝えられている。
乃木は戦前に乃木神社として祀られた。
第11師団は、日露戦争において、旅順攻囲戦など、激戦地で活躍した。
前述の善通寺の南大門は、日露戦争の戦勝記念に建立され、軍馬に乗馬したまま出入りできるよう、大きな薬医門になっている。
その後、第11師団はシベリア出兵、満州事変、上海事変に参画し、第二次世界大戦でも激戦地に投入された。
戦死者は陸軍墓地に葬られているが、墓守が不在で、荒廃してしまっている。
戦時中の善通寺には俘虜収容所があった。
食糧増産のため、俘虜は人間の背丈以上の石垣を築き、近隣の山を開墾するなどの強制労働に従事したという。
陸軍墓地には、亡くなったアメリカ人、イギリス人俘虜の墓がある。
日清戦争から第二次世界大戦における香川県出身の戦死者は、香川県護国神社に祀られている。
神社の境内には、軍馬の碑、傷夷の碑、鎮魂予科練の碑などの石碑があり、戦争の悲惨さを伝えると共に、永久の平和を祈念している。
【史跡】
現在でも、善通寺には第11師団の建物の一部が現存しており、また、第11師団の存在を後世に伝えるため、随所に石碑が立てられている。
(騎兵連隊跡)
市民会館、四国学院大学になっている。
*四国学院大学はセンター試験実施中のため、敷地の外から撮影
(工兵隊跡)
石碑と工兵隊の門が乃木神社に移設されている。
(兵器部倉庫)
第11師団の後継となる陸上自衛隊の敷地内に現存する。
(司令部跡)
陸上自衛隊の敷地になっており、1898年に建てられた師団司令部の建物(通称:乃木館)が現存する。
乃木館の内部は公開されており、乃木が仕事をしていた師団長室も見学することができる。
廊下には、団長、副団長、高級幕僚が建物内にいるか否かを知らせる信号が現存している。
(旧善通寺偕行社)
1903年に建てられ、社交場として主に使用された。
建物は現存し、現在でも結婚式や講演会などで使用されている。
国の重要文化財に指定されているが、国の重要文化財を公共施設として現役で利用している例は極めて少ない。
また、貴賓室は善通寺における陸軍軍事大演習において、当時の皇太子(昭和天皇)の御寝所、御座所、御食堂として利用された。
【食】
①堅パン
堅パンは歯で噛めないほど固く焼いたもので、戦争における携帯食として、陸軍の要請で製造された。
善通寺の熊岡菓子店では、現在も堅パンを製造・販売しており、レトロな店舗と販売方法も相まって、行列ができるほどの人気がある。
包装紙も、当時の風情を感じさせる。
写真左が、当時の堅パンに最も近い角パンで、当時はこれより厚かった。
■2018年1月14日(日)
【歴史】
善通寺は、空海が生まれ育った地である。
空海は佐伯家の三男として、佐伯家の邸宅に産まれたと伝えられている。
佐伯家は、西讃岐の有力な豪族であった。
佐伯家の邸宅跡には、現在、善通寺の御影堂が建てられている。
空海は、佐伯家菩提のため、807年に善通寺を建てた。
現在の善通寺は西院と東院に分かれているが、当時の寺域は東院だった。
東院には、空海が産まれた時には繁茂していたと伝えられている巨大な老楠がある。
また、東院には、空海の両親を奉公している佐伯祖廟がある。
1898年、四国全域を管区とする陸軍第11師団が善通寺に設置され、善通寺は軍都になった。
善通寺に第11師団が設置されたのは、予定していた高松から反対の声が多かったこと、当時の善通寺に広大な土地があったこと、善通寺には讃岐鉄道が開通しており交通の便が良かったことなどがあげられている。
第11師団の初代師団長は、乃木希典であった。
乃木は、任期中、第11師団司令部と丸亀の第12連隊との中間の距離に位置する金倉寺の客殿に居住した。
客殿は9月の第1土・日曜日以外、非公開である。
また、金倉寺の境内には、乃木将軍妻返しの松(現在は2代目)がある。
静子(乃木の妻)が乃木に面会するため金倉寺を訪れたが、何故か乃木は面会せず、途方に暮れた静子が佇んだ松と伝えられている。
乃木は戦前に乃木神社として祀られた。
第11師団は、日露戦争において、旅順攻囲戦など、激戦地で活躍した。
前述の善通寺の南大門は、日露戦争の戦勝記念に建立され、軍馬に乗馬したまま出入りできるよう、大きな薬医門になっている。
その後、第11師団はシベリア出兵、満州事変、上海事変に参画し、第二次世界大戦でも激戦地に投入された。
戦死者は陸軍墓地に葬られているが、墓守が不在で、荒廃してしまっている。
戦時中の善通寺には俘虜収容所があった。
食糧増産のため、俘虜は人間の背丈以上の石垣を築き、近隣の山を開墾するなどの強制労働に従事したという。
陸軍墓地には、亡くなったアメリカ人、イギリス人俘虜の墓がある。
日清戦争から第二次世界大戦における香川県出身の戦死者は、香川県護国神社に祀られている。
神社の境内には、軍馬の碑、傷夷の碑、鎮魂予科練の碑などの石碑があり、戦争の悲惨さを伝えると共に、永久の平和を祈念している。
【史跡】
現在でも、善通寺には第11師団の建物の一部が現存しており、また、第11師団の存在を後世に伝えるため、随所に石碑が立てられている。
(騎兵連隊跡)
市民会館、四国学院大学になっている。
*四国学院大学はセンター試験実施中のため、敷地の外から撮影
(工兵隊跡)
石碑と工兵隊の門が乃木神社に移設されている。
(兵器部倉庫)
第11師団の後継となる陸上自衛隊の敷地内に現存する。
(司令部跡)
陸上自衛隊の敷地になっており、1898年に建てられた師団司令部の建物(通称:乃木館)が現存する。
乃木館の内部は公開されており、乃木が仕事をしていた師団長室も見学することができる。
廊下には、団長、副団長、高級幕僚が建物内にいるか否かを知らせる信号が現存している。
(旧善通寺偕行社)
1903年に建てられ、社交場として主に使用された。
建物は現存し、現在でも結婚式や講演会などで使用されている。
国の重要文化財に指定されているが、国の重要文化財を公共施設として現役で利用している例は極めて少ない。
また、貴賓室は善通寺における陸軍軍事大演習において、当時の皇太子(昭和天皇)の御寝所、御座所、御食堂として利用された。
【食】
①堅パン
堅パンは歯で噛めないほど固く焼いたもので、戦争における携帯食として、陸軍の要請で製造された。
善通寺の熊岡菓子店では、現在も堅パンを製造・販売しており、レトロな店舗と販売方法も相まって、行列ができるほどの人気がある。
包装紙も、当時の風情を感じさせる。
写真左が、当時の堅パンに最も近い角パンで、当時はこれより厚かった。
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