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15208-1 新潟県小千谷市

新潟県小千谷市

1:小千谷
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■2017年9月16日(土)

【歴史】

小千谷は17世紀に、高田藩の許可を得て創られた町である。
小千谷は越後平野の南端に位置し、信濃川の水運に便利な地であった。
従って、小千谷にはかつて信濃川の川港があり、記念碑が、港の存在を伝えている。
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高田藩が越後騒動により減封になると、小千谷は天領になり、後に会津藩預りとなった。
小千谷の蓮華谷に設けた陣屋が、小千谷の支配の中心となった。
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五智院の地蔵堂の屋根は、小千谷陣屋の屋根を転用したと伝えられている。
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戊辰戦争において、小千谷は越後における戊辰戦争の始まりの地となった。
越後における戊辰戦争は、小千谷市の南部に位置する雪峠で始まり、その後、新政府軍は小千谷に進軍した。
会津藩士が逃亡した小千谷では、町民が無血開城し、新新政を受け入れた。
小千谷に駐屯した新政府軍のもとへ、新政府軍の最大の標的の1つとなっていた長岡藩から、藩主の嘆願書を携えて河井継之助が談判に訪れた。
談判は慈眼寺の上段の間で行われ、上段の間が現存する。
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談判で、河井は新政府軍との戦を回避しようと試みた。
しかし、談判は失敗に終わり、長岡藩は開戦に追い込まれた。
談判が失敗(決裂)した要因として、応対した軍監、岩村精一郎(土佐藩士)が血気盛んな若者で、河井に対して聞く耳を持たず、参謀の山縣有朋、黒田清隆に報告・連絡・相談をしていなかったこと等が推測されている。
慈眼寺には、談判の史実を記念し、徳富蘇峰の撰である岩村河井会見記念碑が立てられている。
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その後、長岡藩、会津藩を中心とした旧幕府軍は、戦の上で重要拠点となる榎峠、朝日山で新政府軍と激しい戦いを繰り広げ、奪取に成功した。
朝日山で戦死した会津藩士は、朝日山の麓の浦柄神社境内に葬られている。
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しかし、その後、新政府軍が長岡城を奪取したことで、榎峠や朝日山は重要拠点としての意味を失い、旧幕府軍はそこから撤退した。
小千谷における新政府軍の戦死者は、船岡公園に葬られている。
(手前が、主に長州藩)
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(奥が、主に薩摩藩)
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船岡公園には、朝日山で戦死した参謀、時山直八の墓もあり(上写真)、また、山縣が時山に追悼の意を表した石碑(下写真)が傍らに立てられている。
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戊辰戦争後、長岡藩士の子供は、小千谷に逃げていた。
前述の五智院の住職は、身分や戦争に関係なく子供が教育を受けられるように、五智院に振徳館を設立した。
振徳館は、日本で初めての公立小学校と言われており、現在は小千谷小学校になっている。
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プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で大田区在住

【職業】
2011年より社会人・SE
妻帯者

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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