39208-1 高知県宿毛市

高知県宿毛市

■2017年3月20日(祝)

1:宿毛
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【歴史】

宿毛は土佐国の西の玄関口に当たり、軍事的な要所であった。
戦国時代には松田城(宿毛城)が築かれており、長曽我部氏が土佐を統一した際にも、松田城には一族の者を配した。
松田城は現在は石鎚神社になっており、石垣の一部が現存する。
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江戸時代になると、宿毛は土佐藩の領地になり、山内一豊の甥、可氏が配された。
可氏は一豊の姉の息子にあたり、父、安東郷氏が戦死した後、叔父の一豊を頼り、家臣になった。
可氏の墓は東福院の西山墓地に、妻と並んである。
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以降、幕末まで終始一貫して可氏の子孫(宿毛山内家)が宿毛を治めた。
可氏の子孫の一族の墓は、東福院の東山にある。
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宿毛山内家は、入部当初、前述の松田城で政治を執り行ったが、一国一城令により松田城が廃城になったため、すぐ傍に土居(屋敷)を構え、居住した。
跡地は、保育園になっている。
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江戸時代の宿毛での特筆すべき出来事の1つに、野中兼山一族の幽閉がある(詳細は出来事①を参照)。

宿毛山内家は、文教重視政策により、学問を奨励し、優れた者を身分に関わらず重要なポストに配した。
宿毛山内家は土佐藩においては家老だったため、政治的な実力を養うため、自らも学問に励んだ。
特に幕末には学問所(講授館)を開設し、多くの家臣を教育した。
講授館の跡は、宿毛文教センターになっており、中には宿毛歴史館がある。
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当時、宿毛には酒井南嶺という優れた教授がいた。
南嶺は私塾でも多くの子弟を教育し、吉田松陰に引けをとらない活躍をした。
南嶺の屋敷は、郵便局の向かいにあった。
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幕末の宿毛は学問が盛んな文教の地であり、かつ、優れた教授がいたことから、幕末の宿毛には優秀な人材が数多く育っていた。
さらには、戊辰戦争において宿毛は土佐藩とは別の独自の軍隊(機勢隊)を結成し、北越戦争で活躍すると、隊員は新政府で取り立てられ、中央で活躍した。
このようにして、幕末から昭和前期にかけ、宿毛からは多くの人材が活躍し、偉人は観光でPRしているだけでも20人にも及ぶ(一部の人物の詳細について、偉人の項を参照)
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【出来事】

①野中兼山一族の幽閉

野中兼山は江戸時代初期の土佐藩で辣腕を振るった名奉行である。
また、兼山は可氏の孫を妻に迎えており、その妻の墓は東福院の西山にある。
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また、兼山は宿毛に河戸の堰を築き、町から水害を無くし、近隣の田畑を潤した。
(しかし、河戸の堰により、逆に水害が多発するようになった地区もあったらしい)
現在、河戸の堰の面影は殆ど残っていない。
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しかし、兼山の政治は多くの反発を招き、兼山は失脚させられた。
しかも、反発による怨恨は兼山の一族にも及び、兼山の遺児8人と養母(可氏の娘)は、養母と共に、可氏の子孫の所轄で、かつ高知から見て辺境の宿毛に幽閉された。
遺児たちが幽閉されたのは、現在の宿毛小学校の一角である。
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幽閉は、兼山の一族を根絶やしにすることが目的であり、兼山の息子(男子)全員が死ぬまでの約40年間続いた。
東福院の西山墓地には、8人の遺児のうち、長女よねと四女婉以外の墓がある。
なお、婉については、小説「婉という女」で紹介されている。
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【偉人】

①竹内明太郎(・竹内綱)
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竹内明太郎は、竹内綱の長男として宿毛で生まれ育った。
なお、腹違いの弟には、前後の日本で総理大臣になった吉田茂がいる。
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明太郎は日本の工業振興に尽力し、信念は「工業は国を富ませる基なり」だった。
明太郎は父親である綱の事業を引き継ぐ中で、小松製作所(コマツ)を創設した。
また、早稲田大学の理工学部の新設や高知工業高校の設立など、工業に関する教育施設の創設を行った。
そのため、宿毛文教センターの近くに、高知工業高校のOB有志が建立した記念碑がある。
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なお、明太郎の父親である綱も宿毛を代表する偉人である。
樟脳の製造により宿毛の財政を建て直し、板垣退助を助けて自由党を結成した。
また、明太郎と共に高知工業高校を設立した。
竹内家の墓は、宿毛八幡神社近くの山中にある。
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②林有造
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林有造は岩村秀俊の三兄弟の次男として生まれ、林家の養子になった。
(なお、兄の通俊、弟の高俊は各地の県令になり、活躍した。)
有造は農商務相を務めるなど中央で活躍したが、宿毛の発展にも多大な貢献をしている。
宿毛の産業振興のため、新田の開発、道路の整備、片島の汽船の開通などを実施した。
そのため、銅像は片島港の近くにある。

③林譲治
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林譲治は、前述の有造の次男として宿毛に生まれ育った。
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譲治は宿毛町長を経て、政治家として中央で活躍した。
特に、戦後には吉田茂内閣の重役(内閣書記官長、副総理大臣)を担い、宿毛に縁のある2人が揃っていたことから「宿毛内閣」とも呼ばれた。
譲治の墓は、有造と共に、前述の宿毛山内家の入り口(傍)にある。
これは、有造が死後も主君をお守りしたいという願いに拠るものである。
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④小野梓
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小野梓は1852年に宿毛に生まれた。
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小野は若くして逝去したが、大隈重信と共に早稲田大学を創立し、「早稲田建学の母」と呼ばれ、特に事務の面で貢献した。
重信と共に実施したものには、立憲改新党の結成がある。
また、良書を普及するために神田に自ら本屋「東洋館書店」を開店し、辞書や学術書などを取り扱っていた。
なお、遺志は同郷の坂本嘉治馬に引き継がれた。
小野の邸宅跡は、現在整備され、記念公園になっている。
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墓は、東福院の本堂裏の奥にある。
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また、清宝寺には、小野の顕彰碑が建立されている。
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⑤小野義真

小野義真は1839年に宿毛に生まれた。
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義真は三菱に相談役として入り、三菱財閥の基礎を築いた。
また、東北本線の開通に尽力し、盛岡まで鉄道を敷設した。
なお、小岩井農場の開設にも携わり、小岩井の小は小野の頭文字である。
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39209-0 高知県土佐清水市

高知県土佐清水市

■2017年3月19日(日)

1:中浜
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【偉人】

①中浜万次郎
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中浜万次郎は1827年、土佐清水市街より数キロ南方に位置する中浜(港町)で生まれた。
生家が復元されているが、実際に生家があった場所からは数十メートル離れた場所にある。
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万次郎は1841年に4人の仲間と漁に出たが、時化により鳥島(無人島)に漂流し、仲間と5ヶ月間のサバイバル生活を余儀なくされた。
その頃、中浜では万次郎の母が生死の分からない息子のために仮墓を大覚寺に建立した。
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万次郎たちは、5ヶ月間のサバイバル生活を経て、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出された。
そして、船長のホイットフィールドは、船での行動から万次郎を家族として迎えいれることを決意し、万次郎もこれを快諾した。
万次郎は10年間アメリカに滞在し、航海、造船など高度な学問を学び、自力で日本に帰国した。
帰国後は、ちょうど黒船が来航していたため、万次郎は名字帯刀を許され、アメリカ情勢を知る唯一の人物として、幕府、土佐藩、薩摩藩から重用された。
大きなイベントとしては、開国や、咸臨丸での通訳、および操縦に貢献した。
また、万次郎は英語や航海術、アメリカ情勢を日本人に教え、日本初の英会話辞書を作成し、幕末の志士たちなど、多くの人に影響を与えた。
つまり、万次郎は日米友好の原点、架け橋になり、その功績は大きい。
中浜には、万次郎に正五位が与えられたことを記念する碑の他、帰郷150周年記念に建立された碑が存在する。
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2:清水

【食】
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①清水サバ

土佐清水市街の清水地区は、高知有数の漁業の町である。
清水の代表的な魚がサバである。
清水サバは生きたまま水揚げされるので、比較的腐りにくく、清水では普段は適しない刺身で食べる。
清水サバの刺身は、歯ごたえたっぷりなのが特徴である。
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39210-3 高知県四万十市

高知県四万十市

■2014年3月15日(土)
■2017年3月18日(土)

1:中村
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【歴史】

中村は全国京都会議に加盟しており、小京都として有名である。
中村が小京都たる所以は、15世紀に遡る。
応仁の乱が京都で勃発していた頃、関白の一條教房は、戦場である京都を逃れ、自らの荘園だった幡多荘に下向した。
教房は、中村に館を構え、京都のようなまちづくりを実施した。
例えば、碁盤目状の町割りを実施したが、この町割りは現在も色濃く残っている。
一條教房とその子孫(土佐一條氏)は中村に土着し、長曽我部氏に追われる1574年までの106年間、中村を治めた。
一條教房の墓、教房の孫にあたる房基の墓が中村に現存する。
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土佐一條氏時代から唯一現存するのは、不破八幡宮の本殿である。
また、不破八幡宮の祭礼は、土佐一條氏が、当時に横行していた略奪婚を戒めるために初めた儀式がルーツと伝えられている。
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土佐一條氏の御所館跡は、現在、一條神社になっており、土佐一條氏が祀られている。
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御所館跡には、女官や下女が化粧に使用したと伝えられている井戸がある。
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また、御所館跡の藤は、「咲かずの藤」と呼ばれ、言い伝えがある。
土佐一條氏が長曽我部氏に追われて中村を離れる際、当時の当主の兼定は藤に以下の歌を込めた。

植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな

すると、藤は幕末までの300年弱、一度も咲くことはなかった。
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江戸時代になると、中村には山内一豊の弟、康豊が配された。
中村は土佐藩の支藩となり、康豊と、康豊の次男の政豊が治めたが、政豊に後継ぎがいなかったため、一時期、廃藩となった。
政豊の墓が、中村に現存する。
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その後、土佐藩2代藩主、忠義の次男、忠直が中村藩を再興すると、徳川綱吉に改易されるまで、三代続いた。
忠直の墓が、市街地から離れた場所に現存する。
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なお、改易後、中村藩は再興されることなく、幕末まで、土佐藩から派遣される郡奉行が中村を治めた。
郡奉行所は、中村山内家の屋敷と同じ地(中村高校の近く)にあった。
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中村は、幸徳秋水(詳細は偉人①を参照)をはじめ、幕末から明治時代にかけて活躍した人材を多く輩出している。
例えば、樋口真吉は文武両道で、幡多勤王党を組織するなど、幡多地方の志士のリーダー的存在だった。
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安岡良亮は、樋口と共に行余館(郡奉行所の学校)の教授を務め、熊本県令を歴任した。
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木戸明は中村、高知の教育に一生涯を捧げ、教え子には浜口雄幸などがいる。
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【史跡】

①中村城
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中村城は中村市街の傍にある為松山に築かれた平山城である。
中村城は連立式の城郭で、東ノ城、為松城、詰(本丸)、今城で構成されている。
幡多地方の有力な豪族で、後に土佐一條氏の重臣となった為松氏が築城したと伝えられ、山内康豊、政豊が改築したが、一国一城令により廃城となった。
中村城は、現在、為松公園になっている(写真は本丸跡)。
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城の遺構としては、石垣の一部が現存する。
為松公園の他、住宅団地の公園に復元されている。
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【偉人】

①幸徳秋水
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幸徳秋水は1871年に中村の商人の家に生まれた。
生家は、街中の国道439号沿いにあった。
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秋水は中江兆民に師事し、新聞記者、ジャーナリストとして活躍する傍ら、社会主義運動に挺身し、海外でも演説するなど、活躍した。
しかし、1911年の大逆事件にて首謀者とみなされ、死刑に処せられた。
しかし、実際は秋水は無実で、政府が社会主義者、無政府社会者を弾圧するため大逆事件をでっちあげた、というのが定説となっている。
中村には秋水の墓があり、今でも命日に墓前祭が行われている。
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また、前述の為松公園に、秋水の絶筆石碑がある。
石碑に刻まれているのは、秋水が死刑を宣告された後に、秋水が看守に書いたものである。
書体には乱れがなく、内容から、秋水が自らの人生と生き方に誇りを持って死刑に臨んだことが窺える。
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静岡県まとめ

静岡県まとめ

【歴史概要(江戸時代以降)】

・江戸時代以前は伊豆、駿河、遠江の3カ国に別れていた。
・天領の割合が比較的高いが、それ以外は中・小藩が乱立していた。
なお、各藩の大名の殆どが譜代大名である。
・東海道が東西に通っていたため、東海道の史跡が豊富である。
旧街道歩きを楽しむのも一興である。
・明治時代初頭に、徳川家が70万石に大幅に減封され、駿河に移された。
そのため、周辺の小藩が現在の千葉県に移封された。
・また、その影響で徳川家の家臣の多くが禄を失い、困窮した。
しかし、その現状を打破するため開発された茶畑から採れる茶が静岡県に富をもたらし、現在も県の名産になっている。

【主な市町村の歴史の概要】

①伊豆
《熱海市》
・熱海
古くからの温泉地。
明治時代から別荘地として有名。

《下田市》
・下田
海の関所として、幕府の奉行所が置かれ、港町としても栄えた。
幕末には日本初の開港地となった。
吉田松陰が密航を試みた逸話や、唐人お吉の
話がある。

《松崎町》
・松崎
なまこ壁の家並み。
漆喰鏝絵の産みの親、入江長八の故郷。

《小山町》
・小山
富士紡績の企業城下町。
金太郎伝説がある。
・須走
浅間神社(御師と富士講)。
宝永の大噴火から被災者を懸命に援助した伊奈忠順の秘話がある。

《伊豆の国市》
・韮山
韮山代官江川家の城下町。
幕末の当主、英龍は文武両道で蘭学に長けた代官で、反射炉の建立を計画、実施した。

《三島市》
・三島
東海道宿場町(三島宿)。
富士山の恩恵を受け、水と岩が綺麗で、皇室の別荘が建てられた。

《沼津市》
・沼津
沼津藩城下町+東海道宿場町(沼津宿)。
明治時代以降は風光明媚な土地柄から別荘としても著名になり、皇室の別荘が建てられた。
また、若山牧水が移住し、千本松原を守った。

②駿河

《富士市》
・岩渕
東海道間の宿。
一里塚が両側で現存する。

《静岡市》
・静岡
駿府城城下町+東海道宿場町。
徳川家康と徳川慶喜が多くの時間を過ごした地。
駿府城は百名城に指定。
・清水
日本有数の港町。
偉人に、清水次郎長がいる。
・小島
小島藩城下町。
・蒲原
東海道宿場町(蒲原宿)。
・由比
東海道宿場町(由比宿)。
・興津
東海道宿場町(興津宿)。
明治時代から戦前は偉人の別荘地。
・宇津ノ谷
東海道間の宿。

《焼津市》
・焼津
小泉八雲が愛した港町。
花沢は第一次産業の宝庫として栄え、家並みは重伝建に指定。

《島田市》
・島田
東海道宿場町(島田宿)。
大井川の渡しがあった。
・金谷
東海道宿場町(金谷宿)。

《牧之原市》
・相良
相良藩城下町。
初代藩主は田沼意次。

《藤枝市》
・岡部
東海道宿場町(岡部宿)。
兵隊寺の秘話。

③遠江

《掛川市》
・掛川
掛川藩城下町+東海道宿場町(掛川宿)。
報徳思想普及の中心地。
・横須賀
横須賀藩城下町。

《森町》
・森
自然関係の小京都。

《浜松市》
・浜松
浜松藩城下町+東海道宿場町。
徳川家康が試練を乗り越え、飛躍を遂げた地。
そのため、江戸時代は出席城として大名から人気が高かった。

・気賀
姫街道宿場町。
気賀関。
領主の近藤氏は名君で、地震による津波を、藺草の栽培で救った。
・舞阪
東海道宿場町(舞阪宿)。
今切の渡しと松並木。
・二俣
松平信康が自刃した二俣城。
二俣城と鳥羽山城。
本田宗一郎を輩出。

《湖西市》
・新居
東海道宿場町(新居宿)。
新居関。
・鷲津
豊田グループ創始者、豊田佐吉の故郷。

22225-9 静岡県伊豆の国市

静岡県伊豆の国市

■2017年3月12日(日)

1:韮山
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【歴史】

平安時代の末期、平治の乱で敗れた源頼朝が韮山の蛭ヶ島に配流された。
頼朝は打倒平氏を掲げて挙兵するまでの20年間、蛭ヶ島に住んでいたと伝えられている。
現在、蛭ヶ島は公園になっている。
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頼朝はこの地で北条政子と結ばれた。
蛭ヶ島には夫婦で銅像が建立されている。
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戦国時代に突入する1493年には、北条早雲が韮山に城(韮山城)を構えた。
韮山城は、後北条氏が本拠地を小田原に移した後も、西方の戦国大名に対する防御拠点として重要な城だった。
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江戸時代になると、韮山は天領になり、代官所が設置された。
代官は江川氏が幕末まで務めた。
江川氏は源氏の一族で、平安時代末期から韮山に移り住み、源頼朝、後北条氏、徳川氏に仕えた。
江川氏は現在も存続し、現在の当主が42代目である。
江川氏の墓は本立寺にある。
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江川氏は代々善政を行ったそうで、領内で百姓一揆は発生しなかったそうだ。
特に、幕末の36代当主、江川英龍は幕府の中枢でも活躍した。
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英龍は蘭学を学び、海防の重要性を説き、江戸に台場(現在のお台場)を築いた。
英龍は砲術を学び、江戸と韮山で塾を開いた(塾生は数千人に及び、佐久間象山、橋本左内などの偉人も数多くいた)。
また、反射炉(詳細は史跡①を参照)の建設を企画し、実施したが、完成前に死去した。
英龍の墓も前述の本立寺にある。
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英龍は諸外国との戦争を見越し、食糧増産のため、乾パンを製造した。
このことから、英龍はパン祖と呼ばれ、碑とパン焼き釜が江川邸(詳細は史跡②を参照)にある。
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【史跡】

①韮山反射炉

韮山反射炉は、幕府が建造した反射炉としては唯一現存するもので、近年、明治日本の産業革命遺産を構成する1つとして、世界遺産に登録された。
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当時の幕府は鎖国をしていて、かつ、財政が厳しかった。
そのため、鉄を溶かす際に溶けないような耐火レンガを国産で製造し、使用した。
当時はレンガを風雨から守るため、漆喰で塗りかためられており、周辺には作業小屋があった。
また、鉄骨フレームは昭和時代に耐震性を上げるため、取り付けられた。
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韮山反射炉では、写真のようなカノン砲などが製造された。
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②江川邸
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江川邸は江川氏の邸宅で、移り住んで以来、戦火や火災に遭わず、災害にも耐え抜いたそうだ。
平屋ではあるが、高さが12メートル以上もあり、代官の威厳を示しているそうである。
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裏門の門扉は戦国時代以前のもので、穴は小田原攻めにおける鉄砲玉や鏃の跡と伝えられている。
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22305-1 静岡県松崎町

静岡県松崎町

■2017年3月11日(土)

1:松崎
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【歴史】

松崎は養蚕が発達し、絹の産地として、明治時代から戦前にかけて、特に栄えていた。
また、当時の松崎は左官職人が多く、漆喰の材料となるふのりをすぐに調達することができた。
以上の条件から、松崎ではなまこ壁の建物が次々に建てられ、現在も所々に現存する。
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【偉人】

①入江長八
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入江長八は漆喰鏝絵を産み出し、漆喰を芸術の域に昇華させた。
長八は松崎の貧しい農家に産まれたが、左官職人になるため上京し、左官職人としての修行の傍ら、狩野派の絵を学んだ。
これが、漆喰鏝絵を産む原動力となった。
岩科地区に現存する明治時代の学校の校舎、岩科学校には、長八の漆喰鏝絵で彩られた鶴の間がある。
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長八の墓(分骨)、および顕彰碑は浄感寺にある。
なお、浄感寺には長八の鏝絵などの作品が現存する(撮影禁止のため、写真なし)。
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21505-8 岐阜県八百津町

岐阜県八百津町

◼2017年3月5日(日)

1:八百津
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【歴史】

木曽川沿いに位置する八百津は、江戸時代、錦織綱場が設置され、尾張藩にとって重要な地だった。
錦織綱場では、上流から運搬された木曽の木材を集積し、筏に組み立て、下流の名古屋や犬山に流した。
錦織綱場は尾張藩が管理しており、傍には役所が置かれていた(現在、クロガネモチの木が立っている)。
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明治時代になると、木曽川では初となる八百津発電所が建設され、1974年まで稼働した。
発電所の建物は現存し、国の重要文化財、および産業遺産に指定されている。
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また、少し離れた場所には、貯水槽・余水路が現存する。
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なお、錦織綱場は、ダムが建設される大正時代末期まで続いた。
木材の運搬は、河川から鉄道に変えられた。

【偉人】

①杉原千畝
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杉原千畝は八百津が生まれ故郷である。
杉原は、第二次世界大戦時にリトアニア領事代理を務めていた。
その際、ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求める大勢のユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。
日本の外務省は、当時ドイツと同盟関係にあったことからビザ発行を許可しなかった。
しかし、杉原は悩み抜いた結果、人道愛を優先し、祖国の命令に背き、ビザを発行し続けた。
その結果、6000人以上のユダヤ人たちの命が救われ、その命は彼たち彼女たちの子孫に広がり、受け継がれている。
八百津には、杉原の行いの尊さを後世に伝えるため、杉原千畝記念館が設立されている。
記念館には、杉原の命のビザで助かった人たち、およびその子孫からの感謝のメッセージなどが紹介されている。
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記念館の周辺にある人道の丘公園には、世界平和や人間愛を表すモニュメントが建立されている。
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21211-3 岐阜県美濃加茂市

岐阜県美濃加茂市

■2017年3月4日(土)

1:太田
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【歴史】

江戸時代の太田は、中山道宿場町(太田宿)だった。
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太田宿は比較的小さい宿場町だったが、交通の要衝であった。
太田宿には、関、郡上へ通じる郡上街道との追分があり、道標が現存する。
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また、高山へ通じる飛騨街道との追分もある。
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太田宿から可児(東)へ行くには、木曽川を渡る必要があるため、渡し(太田の渡し)があった。
太田の渡しは、1927年に太田橋が完成するまで使用された。
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渡しの他、木曽川で運搬される木曽の木材を管理するため、太田宿には幕府の役所(川並番所)が設置されていた。
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太田宿は尾張藩であり、1782年には太田に尾張藩の代官所が設置された。
現在、代官所の跡地は小学校になっている。
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代官所の役人の家からは、文人、坪内逍遙を輩出している。
太田宿には、逍遙ゆかりのムクノキが現存する。
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幕末の太田宿では、3つの重大な出来事があった。

1つ目は、戊辰戦争において、尾張藩主が75日太田宿に留まり、軍資金を集めたことである。

2つ目は、和宮下向で、太田宿にも一向が宿泊した。
太田宿では、馬が1頭
行方不明になり、馬の管理を担当した太田の豪商が、切腹させられそうになったという逸話がある(その後、豪商は本陣の手助けで命は助かったが、資産の多くを失った)。
和宮下向の際、本陣の門が新築され、現存する。
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本陣の門の一部(門扉と屋根との間)は、菊の御門の形をしている。
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3つ目は、水戸天狗党の通過である。
太田宿では、水戸天狗党を歓待し、被害を被らなかった。
天狗党の代表格の1人、武田耕雲齋は本陣に宿泊し、御礼として兜を贈った。
*本陣には耕雲齋の兜が現存するが、個人所有のため、写真は掲載しない

明治時代になると、太田宿は交通の要衝のためか、太田を訪れた行商人が何人も定住したそうである。
また、旧脇本陣林家には板垣退助が宿泊し、板垣が植えたと伝えられている木が現存する。
なお、板垣が太田宿に宿泊したのは、岐阜で暴漢に襲われる前日であった。
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林家は現在でも太田宿に多くの土地を有する豪商で、母屋と門の他、隠居所(写真手前)が現存する。
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母屋の屋根は主に木材だが、隠居所の屋根は瓦である。
鬼瓦や、門の屋根の狛犬は阿吽になっており、また、門の屋根を支える対の狛犬は各々で逆の方向を向いている。
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戦時中の太田には、岡本太郎の父、岡本一平が疎開した。
一平はその後、太田で生涯を閉じた。
太田には、一平が過ごした居宅が現存する。
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21213-0 岐阜県各務原市

岐阜県各務原市

■2017年3月4日(土)

1:鵜沼
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【歴史】

各務原市の東方に位置する鵜沼は、江戸時代、中山道宿場町(鵜沼宿)だった。

鵜沼宿は、江戸時代の初めは木曽川沿いに位置していたそうだが、中山道の一部ルート変更に伴い、現在の位置に移ったそうである。
鵜沼宿と太田宿との間にあるうとう峠には、江戸からちょうど百里目の一里塚があり、一部が現存する。
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一里塚の近くには、道標を兼ねた供養塔がある。
江戸時代、小田原の人がうとう峠で盗賊に襲われ、命を落としたのを、地元の人が悼み、建立した。
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明治時代の濃尾地震により、鵜沼宿に現存する江戸時代以前の建物は1軒のみである。
しかし、近年、町の景観が整備され、宿場町の面影が再現されている。
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鵜沼宿には、松尾芭蕉が3度も脇本陣に宿泊した。
芭蕉の弟子の1人が、犬山城の成瀬氏に仕えており、その弟子のもとを訪れていたそうである。
芭蕉の3度目の宿泊にて、脇本陣の主人が芭蕉に1句求めたところ、芭蕉は応じ、即興の句を珪化木に彫った。
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なお、脇本陣は、図面が現存していたため、近年、復元された。
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また、鵜沼宿には、伊能忠敬が本陣に宿泊した。
うとう峠にて測量していた忠敬に、ネギの雑炊を振る舞ったところ、忠敬はおかわりも頂いたという逸話が残っている。
そのため、鵜沼宿の宇留摩庵では、ネギの雑炊(ねぶか雑炊)を復活し、提供している。
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【史跡】

①旧大垣城鉄門

鵜沼宿には、大垣城の鉄門が現存している。
廃城令にて競売に出されたものが、巡り巡って鵜沼宿に移築されたもので、現存する鉄門は珍しいそうである。
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三重県まとめ

三重県まとめ

【歴史概要(江戸時代以降)】
・江戸時代以前は伊勢、伊賀、紀伊(一部)、志摩に別れていた。
・三重県の代表的な大名には、伊勢の一部と伊賀(併せて30万石)を所有していた藤堂氏がいる。
また、親藩・譜代の大藩では桑名藩(11万石)があり、松阪など、紀州藩の領地が点在していた。
その他、中・小藩の大名が点在していた。
・三重には伊勢の神宮があるため、江戸時代は伊勢参宮、おかげ参りで、街道が多いに賑わった。
そのため、街道沿いには昔の面影を残しているところが少なくない。

【主な市町村の歴史の概要】

①伊勢

《桑名市》
・桑名
桑名藩城下町+東海道宿場町。
戊辰戦争では藩主と藩本体が別行動をとり、新政府からの大きな罰を免れた。
また、宝暦治水関連の史跡もある。
名産は、蛤(ハマグリ)。
・長島
長島藩城下町。
長島一向一揆。
三角州ゆえに、輪中地帯で、洪水多発地帯であった。
・多度
多度大社門前町。

《四日市市》
・四日市
東海道宿場町。
稲葉三右衛門により四日市港が発展し、国内有数の貿易港へ進化した。
四日市ぜんそくが発生したが、現在は青い空が広がっている。
・桜
百名水の智積用水が流れている。

《亀山市》
・亀山
亀山藩城下町+東海道宿場町。
・関
東海道宿場町。
町並みは重伝建。

《鈴鹿市》
・神戸
神戸藩城下町。
・白子
江戸時代には、伊勢湾で最も栄えた港町。
・若松
大黒屋光太夫の故郷。
・石薬師
東海道宿場町。
・庄野
東海道宿場町。

《津市》
・津
津藩城下町。
偉人には、谷川士清がいる。
・久居
津藩の分家、久居藩城下町。
忠犬ハチ公の飼い主の故郷。
地名には、初代藩主の願いが込められている。
・一身田
日本第5位の大きさを誇る本堂を持つ専修寺の寺内町。
・芸濃
伊勢別街道宿場町。

《松阪市》
・松阪
紀州藩飛び地。
三井財閥発祥の地。
偉人に、本居宣長がいる。
・三雲
市場庄は伊勢街道の宿場町。
偉人に、松浦武四郎がいる。

《伊勢市》
・山田
伊勢の神宮。
遠国奉行所があった。
河崎は問屋町。
古市は三大遊郭の1つだった。

《菰野町》
・菰野
菰野藩城下町。

《明和町》
・斎宮
斎宮があった場所で、斎王の歴史を紡いでいた。

《玉城町》
・田丸
紀州藩家老久野氏の城下町。
偉人に、村山龍平がいる。

②伊賀

《伊賀市》
・上野
津藩の伊賀国の城下町。
松尾芭蕉の故郷。
伊賀忍者でも有名。
伊賀上野城は百名城。

《名張市》
・名張
名張藤堂家の城下町。
初瀬街道と用水の町。

③紀伊

《尾鷲市》
・尾鷲
土井家が開拓した町。
漁業と林業が盛ん。

《熊野市》
・熊野
紀州藩の奥熊野代官所があった町。
古事記の神産みの舞台。

④志摩

《鳥羽市》
・鳥羽
鳥羽藩城下町+風待ち港町。
真珠王、御木本幸吉が観光の町として発展させた。
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プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で東京在住

【職業】
(平日)2011年より社会人・SE
(休日)旅人

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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