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動画では、私が訪れたことのある市町村の歴史をわかりやすく紹介しております。
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地域の歴史紹介チャンネル(別ウインドウでYouTubeに飛びます)

11208-9 埼玉県所沢市(所沢)

埼玉県所沢市

1:所沢

■2022年9月23日(祝)

【歴史】

所沢は日本で初めて飛行場が設置された地である。
日本初の飛行場「所沢飛行場」の跡地は「所沢航空記念公園」となっており、園内に「航空発祥の地」と書かれた石碑がある。
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1903年にライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した(飛行機を発明した)後、先進国は競い合うように飛行機を発展させていき、航空機の軍事利用を推し進めた。
日本は1909年に公的な航空機研究機関を設立し、翌年の1910年には代々木練兵場(現:代々木公園)で徳川好敏・日野熊蔵が日本人で初めての飛行に成功した。
そして、日本で初めての飛行場となる所沢飛行場を1911年に開設した。
所沢が飛行場に設立されたのは、所沢が都心に近く、落雷が少なく、起伏が少ない平らな地形が飛行に適していたためと言われている。
航空公園駅から高架を渡って所沢航空記念公園に入ってすぐ見える直線状の花壇は、当時の滑走路の一部である。
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翌年の1912年には所沢飛行場で陸軍特別大演習が行われ、航空機による飛行も行われた。
大正天皇が演習を統監しており、大正天皇がいた場所には『大正天皇御駐輦之跡」碑が園内に建てられている。
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当時、飛行機の操縦は命がけであり、事故が少なくなかった。
日本では1913年3月28日に木村鈴四郎・徳田金一が飛行中の事故で死亡し、日本で初めての航空犠牲者となった。
その後、2人の英姿を銅像にした記念碑が事故現場に設置され、現在は園内に移されている。
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このように、1910年代前半に日本の航空は始まったが、航空レベルはほかの先進国と比べ大幅に遅れていた。
そこで、日本は当時航空の最先端にあったフランスから航空教育団を派遣してもらい、1919年から約2年間、指導を受けた。
園内には、航空教育団の団長でフランスでも航空部隊の第一人者だったフォール大佐の胸像が建てられている。
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所沢には航空大隊が創設された後、1919年に陸軍航空学校が設置され、多くのパイロットが育成された。
終戦後、所沢飛行場はアメリカ軍に接収され、1982年までに約7割が返還されるも、残りの3割は今でもアメリカ軍の所沢通信基地となっている。
園内にある「所沢航空発祥記念館」では、歴代の航空機が展示されているほか、航空の歴史や所沢飛行場の歴史を紹介している。
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11225-9 入間市(豊岡)

埼玉県入間市

■2022年9月23日(祝)

1:豊岡

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旧豊岡町は入間市駅周辺一帯の地域(旧豊岡町)を指し、入間市の中心地である。

【歴史】

≪日本有数の製糸会社、石川組製糸所≫

豊岡には明治から昭和初期にかけて製糸会社「石川組製糸所」があった。
創業者は地元の農家出身の石川幾太郎で、いち早く蒸気力による機械製糸を導入したことで、日本有数の製糸会社に成長させた。
最盛期の石川組製糸所は全国に9軒の工場を有し、生糸出産高で全国6位となった。
豊岡には、石川組製糸所に関する史跡が点在している。

幾太郎の弟の石川和助がキリスト教に改宗し布教したことで、幾太郎もキリスト教に改宗した。
そのため、幾太郎は女工に夜間学校や娯楽を提供し、当時としてはホワイトな会社にしていた。
武蔵豊岡教会はヴォーリズが設計し1923年に竣工した教会で、和助の布教の結果できたものである。
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幾太郎の妹のつめは、石川組製糸所の女工総監督を務めた。
大正時代に建てられたと言われているつめの住宅(『新道の家』)が現存する。
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株式会社石川洋行の事務所は、石川組製糸所の本店工場内にあった事務所棟を移築したものである。
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≪入間基地とジョンソンタウン≫

1938年、豊岡には陸軍航空士官学校分校(陸軍航空部隊の航空兵将校を養成する士官学校)が所沢から移転し、2年後の1940年には、豊岡陸軍飛行場が完成した。
終戦後、アメリカ軍は豊岡陸軍飛行場を接収し、終戦直後に事故死したエースパイロット「ジェラルド・R・ジョンソン」を偲んで『ジョンソン基地』と命名した。
ジョンソン基地は1978年に日本に全面返還され、航空自衛隊の基地(入間基地)となっている。
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また、跡地の一部は公園化され、「彩の森入間公園」となっている。
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アメリカ軍は、石川組製糸場の農場の跡地に兵士の住宅を相次いで建て、「ジョンソンタウン」と呼ばれる住宅街を創りあげた。
基地返還後は建物の多くが取り壊されたが、21世紀に入り、土地を管理していた株式会社磯野商会が米軍ハウス風の建物を相次いで建て、当時のジョンソンタウンの米国風の街並みを再現した。
ジョンソンタウンには飲食店や雑貨屋などが進出し、観光地となっている。
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【史跡】

①旧石川組製糸西洋館

旧石川組製糸西洋館は、幾太郎が大正時代に迎賓館として建てた洋風木造建築である。
「豊岡を見くびられないよう、精一杯のおもてなしのできる建物にする」という幾太郎のコンセプトで建てられた結果、贅を凝らした迎賓館となった。
西洋館は2階建ての本館と平屋の別館が連結され、壁一面が化粧煉瓦(タイル)で覆われている。
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(本館)
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(別館)
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1階の応接室は、来客を最高のもてなしで迎えたいという幾太郎の思いから、折上格天井の天井となっている。
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2階の貴賓室は、金泥や銀泥で雲を描いた絹布を貼った天井を有し、主客をもてなすために最も贅を尽くした作りとなっている。
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2階には東和室・西和室と二間続きの和室があり、畳の薄縁を敷いた縁側で囲まれている。
典型的な和室で、外国の客人に日本風のもてなしをするために造られたと考えられる。
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2階には舞踏会を行うための洋風の大広間もある。
大広間には蘭、竹、菊、梅をモチーフに描いたステンドグラスがあり、外側は階段に面している。
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1階の食堂は幾何学模様を配した折上天井で、西洋館の創建当時の調度品が置かれている。
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1階の玄関ホールには大理石の飾り暖炉がある。
階段を上がって2階ホールは漆喰塗でシンプルな作りにしてある。
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13103-2 東京都港区(芝)

東京都港区

3:芝

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■2022年9月17日(土)

芝地区はJR山手線・京浜東北線の新橋~田町駅間の西側一帯のエリアを指す。

【歴史】

≪徳川将軍家の菩提寺、増上寺≫

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芝地区には、徳川将軍家の菩提寺の増上寺がある。
室町時代に聖聡という僧が、現在の紀尾井町に増上寺を創建した。
聖聡の弟子や孫弟子は、徳川将軍家の先祖にあたる松平宗家が開基した寺院をいくつか開山した。
この縁もあり、徳川家康は増上寺を菩提寺とし、江戸城の裏鬼門(南西)に移した。
増上寺は広大な敷地を有していたが、明治時代の廃仏毀釈で規模が縮小し、広範囲が芝公園となった。

増上寺には徳川家の霊廟があり、6人の将軍(2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂)が眠っている。
各々の将軍の墓は華麗な建築技術・意匠を施された御霊屋に覆われ、戦前には国宝に指定されていたが、太平洋戦争の空襲でほとんどが焼失した(写真は焼失前の御霊屋)。
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その後、将軍の墓は増上寺黒本尊の裏に集められ、『徳川将軍家墓所』となった。
墓石は巨大な宝塔となっている。
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墓所には、天皇家から14代家茂に嫁いだ和宮の墓もある。
将軍の墓は6代家宣を除き石造だが、和宮の墓は青銅製で、菊の御紋(天皇家の家紋)が施されている。
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墓所の門は、6代家宣の御霊屋『文昭院殿霊廟』の中門を移した青銅製の門で、両脇には昇り龍・降り龍が施されている。
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御霊屋のうち、2代秀忠の霊廟の惣門(『台徳院霊廟惣門』)、7代家継の霊廟の二天門(『有章院霊廟二天門』)が現存する。
台徳院霊廟惣門には阿吽の仁王像が、有章院霊廟二天門には広目天と多聞天が安置されている。
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増上寺やその周辺には、江戸時代に建てられた建築物が現存する。

・経蔵
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・三解脱門(三門に当たる建物)
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・御成門(増上寺の裏門で、徳川家将軍が参詣する際に利用された)
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また、増上寺の総門に当たる大門は、1937年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの高麗門様式で再建され、区の有形文化財となっている。
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≪日本の鉄道発祥の地、旧新橋停車場跡≫

1872年、日本で初めての鉄道が新橋ー横浜間で開業し、そのときの新橋駅の遺構が残っている。
当時の新橋駅は汐留にあり、東京駅開業後の1914年に当時の烏森駅が新橋駅に改称し、初代の新橋駅は汐留駅と改称した。
初代新橋駅(旧新橋停車場)は汐留駅の改良工事のため解体されたが、1996年に国の史跡となったことで再現された。
駅舎はアメリカのお雇い外国人の設計で造られた西洋建築だった。
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プラットホームは、初代新橋駅の場所にあった大名屋敷の礎石が基礎石に使用されている。
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開業当時は新橋駅が路線の測量の基点となっていたため、0マイル標識が建てられていた。
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≪慶應義塾大学の歴史≫

芝地区には慶應義塾大学の三田キャンパスがある。
慶應義塾大学の始まりは、1858年に福沢諭吉が築地の中津藩中屋敷で開いた蘭学塾である。
その後、アメリカやヨーロッパを訪問した諭吉は、学問による人材育成を生涯の仕事と定め、1868年に塾を芝新銭座(現在の浜松町一丁目)に移し、蘭学塾を「慶應義塾」と命名した。
慶應義塾が三田に移ったのは、3年後の1871年である。
当時は英語で西洋の学問を学ぶ随一の学校だった。

諭吉は、社会に西洋のような自由をもたらすには議論が必要であると考えていた。
そこで、議論のスキルを向上するため、「討論」「演説」の勉強を塾生と始め、演説を特訓するための施設として1875年に『三田演説館』を建てた。
なまこ壁に覆われた擬洋風の建物である三田演説館は、三田キャンパスで現存する数少ない建物の1つである。
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1881年の「明治14年の政変」で官界から慶應義塾出身者が追放されたことから、慶應義塾出身者は実業界へ進むことが一般的だった。
塾生たちは、商業を重視し経済合理性や利潤を追求することを学び、諭吉の期待通り、多方面から社会を豊かにする人材となった。
諭吉は1901年に三田の自宅で病死した。
自宅の跡地は三田キャンパスの東南の隅に当たり、「福沢諭吉終焉之地」と書かれた石碑が建てられている。
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慶應義塾は1920年に日本で最初の私立大学として認可された。
三田キャンパスは1945年5月25日の空襲で大部分を焼失したが、前述の三田演説館のほか、1912年にゴシック様式で建てられた図書館が焼失を免れた。
図書館だった建物は『福沢諭吉記念慶應義塾史展示館』となり、福沢諭吉の功績と慶應義塾大学の歴史を紹介している。
また、館内には空襲で破損したが復元されたステンドグラスを見ることができる。
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13103-2 東京都港区(赤坂)

東京都港区

4:赤坂

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■2022年9月17日(土)

【歴史】

≪江戸時代の赤坂~武家屋敷跡~≫

江戸時代の赤坂は大名や旗本の屋敷が林立していた。

・長州藩下屋敷跡

檜町公園は長州藩下屋敷の跡地で、園内の池に大名庭園の面影が残っている。
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なお、明治時代から終戦までは歩兵第一連隊の駐屯地だった。
公園の南東の隅に「歩一の跡」と書かれた石碑が建てられている。
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・三次藩浅野家下屋敷跡

三次藩浅野家は1718年に跡継ぎがなくお家断絶となった。
下屋敷の跡地には、8代将軍吉宗が氷川神社を建てさせた。
氷川神社は赤坂氷川神社と称され、現存する社殿の格天井には花鳥図が描かれている。
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・勝海舟邸跡

勝海舟は1859年~68年の10年間を赤坂で過ごした。
屋敷跡はソフトタウン赤坂にあり、案内板と標柱が建てられている。
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≪明治以降で初の国宝、迎賓館赤坂離宮≫

赤坂には天皇家や皇族が居住する赤坂御用地がある。
その一画にある赤坂離宮は、1909年に東宮御所(皇太子の邸宅)として建てられた。
宮廷建築家の片山東熊の総指揮の下に、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建築したネオ・バロック様式の洋風宮殿建築は、あまりにも華美なことから邸宅としてはあまり使用されず、国立国会図書館や昭和39年の東京オリンピック組織委員会などの公的機関に使用された。
太平洋戦争後、国際社会に復帰した日本は外国の賓客を迎えることが多くなり、赤坂離宮が改修されて1974年に迎賓館となった。
迎賓館は2009年に明治以降の文化財として初めての国宝となり、現在は一般公開されている。
本館はイギリスのバッキンガム宮殿やフランスのヴェルサイユ宮殿を参考に建てられた宮殿で、菊の御紋も施されている。
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本館の裏にある主庭にある巨大な噴水には、亀、シャチ、グリフォン(伝説上の生き物)の青銅製の彫刻が施されており、本館と同じく、国宝になっている。
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前庭の両脇には、迎賓館赤坂離宮を警護する衛士が詰めていた衛舎が建てられている。
この東西の衛舎も国宝になっている。
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正門を含む正門外柵は160メートルもの高さを誇る。
正門も国宝になっている。
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≪乃木希典と赤坂≫

1902年に乃木希典が赤坂に邸宅を建てた。
乃木は1912年に明治天皇が崩御した後、後を追って自邸で妻と自刃し、殉死した。
その後、自邸(『旧乃木邸』)は東京市に寄付され、太平洋戦争の空襲で焼け落ちずに現存する。
旧乃木邸は乃木自身がフランス軍隊の建物を模して設計したと言われており、半地下も含め3階建てとなっている。
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1階の隅の和室は乃木の居室で、乃木が妻と殉死した部屋である。
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また、旧乃木邸には煉瓦造りの馬小屋がある。
母屋より立派であることから「新坂の馬屋敷」と称されていた。
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翌年の1913年には、旧乃木邸の隣に乃木と妻を祀る乃木神社が建てられた。
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13103-2 東京都港区(芝浦港南)

東京都港区

2:芝浦港南

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■2022年9月3日(土)

芝浦港南地区は明治時代以降に埋め立てによりできた地区で、台場、芝浦、港南、海岸の一部が該当する。

【史跡】

①品川第三台場

東京を代表する観光スポットとなっているお台場には、その名の由来となっている台場が江戸時代末期に建造された。
ペリー来航後、江戸幕府は東京湾の海防を強化するため、台場(砲台)を東京湾に設置した。
台場は11基建造する計画であったが、そのうち完成した台場は6基で、第三台場と第六台場以外は昭和期の埋め立てにより消滅した。
第三台場と第六台場は1926年に国指定の史跡となり、第三台場は台場公園として整備された。
また、近年、第三台場は続日本百名城に選定された。
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第三台場の南側には、復元された砲台がある。
当時から砲台は西洋式で製造されていた。
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第三台場には火薬庫跡が数カ所確認できる。
火災や敵から被弾した際の安全を考え、火薬庫は数カ所に分散されていた。
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台場に勤務していた武士の居住地として、台場には陣屋が建てられていた。
第三台場には陣屋の基礎のみ現存する。
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②旧芝離宮恩賜庭園

JR浜松町駅のそばにある旧芝離宮恩賜庭園は、老中を務めた大久保忠朝が1678年に建てた上屋敷の庭園『楽寿園』が始まりである。
典型的な池泉回遊式庭園で、中国の西湖堤を模した堤や、蓬莱山を表した中島など、中国の趣を取り入れている。
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楽寿園は1875年に宮内庁に買い上げられ、「芝離宮」となった。
1891年には園内に迎賓館として使用された洋館が建てられたが、1923年の関東大震災で倒壊した。
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13103-2 東京都港区(高輪)

東京都港区

1:高輪

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■2022年9月3日(土)

【歴史】

≪赤穂事件ゆかりの地≫

高輪は赤穂事件にゆかりのある地である。
赤穂事件とは、1702年に赤穂藩士46人が吉良義央の屋敷に乱入し、主君である赤穂藩主の浅野長矩の仇をはらした事件である。
浅野長矩は遺恨から江戸城内で吉良義央を切りつけたことで切腹となり、家も改易となった。
しかし、吉良義央には何のお咎めもなく、赤穂藩士はこれに反発し、事件を起こした。

吉良義央を殺害した赤穂藩士46人は、肥後藩細川家、長府藩毛利家、伊予松平藩松平家、岡崎藩水野家に分かれて預けられ、切腹となった。
このうち、家老の大石良雄ら17人は肥後藩細川家に預けられ、肥後藩下屋敷で切腹した。
都営高輪一丁目アパートが肥後藩下屋敷跡で、大石らが切腹した場所の跡が『大石良雄外十六人忠烈の跡』として都の史跡となっている。
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赤穂藩士46人の墓は、主君の浅野長矩と共に、浅野家の菩提寺である泉岳寺にある。
墓の入口の門は、浅野家の上屋敷の裏門を移築したものである。
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≪大使館・公使館と高輪≫

高輪には開国直後から公使館が置かれていた。
理由としては、高輪は開港した横浜や海が近く、多くの人を受け入れられる寺院が多かったためである。
1859年には、東禅寺にイギリスの公使館が、済海寺にフランスの公使館が設置された。
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当時は外国人を排斥しようとする攘夷思想を持つ人が多く、公使館が襲撃されることが少なくなかった。
そのため、公使館は別な場所に移ったが、明治維新後に港区に相次いで大使館や公使館が建てられ、現在に至る。
高輪にはクウェートやスリランカの大使館がある。
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13121-1 東京都足立区(千住)

東京都足立区

1:千住

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■2022年8月29日(月)

足立区で随一の繁華街である千住は、江戸時代は日光街道・奥州街道の宿場町だった。

【歴史】

≪千住の町の始まり≫

千住の町は、16世紀末に石出吉胤が開発した町である。
吉胤は千葉氏一族の末裔と伝えられ、千住大橋の架橋工事に参加し、掃部堤と呼ばれる堤防を築いたことで、千住を水害から守った。
吉胤の子孫は代々名主を務め、吉胤の墓は源長寺にある。
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≪日光街道・奥州街道の宿場町、千住≫

吉胤が開発した町は、江戸時代になり、日光街道・奥州街道の宿場町(江戸を出て最初の宿場町)になり、北方の諸藩の大名行列や日光例幣使など、多くの人々が往来した。
千住宿は大規模な宿場町となり、南は千住大橋を越えて南千住まで拡張され、4Km余りの長さを誇った。
東京芸術センターは、問屋場と貫目改所があった。
問屋場では旅人に人馬を手配し、貫目改所では運賃を決めるために荷物の重量を検査した。
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『そのうビル』には、千住宿で唯一の本陣があった。
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千住は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で多数の門人に送られて旅を始めた場所である。
芭蕉は深川から隅田川を北上して千住大橋の北側に上陸したと考えられており、千住大橋の北詰め西側の大橋公園に「おくのほそ道矢立初の碑」が建てられている。
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≪江戸時代からの青物市場≫

千住宿が大規模な宿場町になった要因の1つに、市場の存在がある。
千住は隅田川に面しており、陸水両面の交通の要衝だった。
そのため、江戸時代から千住に青物市場があり、神田、駒込と並び、江戸の三大青物市場だった。
千住の青物市場は「やっちゃば」は、「やっちゃい、やっちゃい」という問屋のセリの声から来たと言われている。
「やっちゃば」は現在の千住河原町にあり、『千住宿歴史プチテラス』には「やっちゃ場の地」と書かれた石碑が建てられている。
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千住河原町にある稲荷神社は市場の鎮守であり、境内には1906年に千住市場創立330年を記念した祝賀祭が行われたことを示す碑が建てられている。
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千住には江戸時代が終わった後も青物市場が残り続け、現在は『足立市場』として水産物を専門に取り扱っている。
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13122-9 葛飾区(柴又)

東京都葛飾区

1:柴又

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■2022年8月29日(月)

【歴史】

≪柴又の観光の中心、柴又帝釈天≫

柴又帝釈天は、正式名称を経栄山題経寺と号する日蓮宗の寺院で、1629年に創建された。
150年後の1779年、本堂の改修の際、日蓮宗の開祖である日蓮が刻んだと伝えられる帝釈天像の版木(板本尊)が見つかり、題教寺に参詣する人が急増した。
柴又帝釈天の境内にある『帝釈天出現由来碑』は、この言い伝えを石碑に刻んだものである。
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柴又帝釈天の帝釈堂と二天門には、精巧な装飾彫刻が施されている。
昭和初期に複数の彫刻師によって彫られたものである。
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≪国の重要文化的景観に指定された柴又≫

柴又は、近代以降に発展した柴又帝釈天の門前と、それらの基盤となった農村の面影が残る景観が評価され、国の重要文化的景観に選定されている。

柴又帝釈天の周辺は農村だったが、明治時代になると農家が副業として煎餅屋や料亭を門前で営むようになった。
京成電気軌道(現:京成電鉄)が通るようになったことで鉄道網が整備された柴又の門前は行楽地として賑わい、現在も葛飾区を代表する観光スポットになっている。
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柴又は江戸側に面しており、近隣住民が対岸の矢切(千葉県松戸市)に渡るための渡船場が江戸時代からあった。
柴又と矢切を結ぶ渡し舟は「矢切の渡し」と呼ばれ、首都圏で唯一現存する渡しである。
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柴又帝釈天の周辺の農村は都市化したが、用水路(柴又用水)の跡が小径になっており、当時の柴又用水の面影を感じることができる。
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≪「男はつらいよ」の舞台≫

柴又は「男はつらいよ」の舞台でもあり、作品の多くのファンが柴又を訪れている。
「男はつらいよ」は、山田洋次が原作・脚本、渥美清が主演のテレビドラマ・映画で、1968年10月~1969年3月にテレビドラマとして放映された後、映画として50作ものシリーズが制作され、多くの人に愛された。
柴又には、「男はつらいよ」を紹介する『寅さん記念館』と、原作・脚本を手がけた山田洋次を紹介する『山田洋次ミュージアム』がある。
また、柴又駅には、渥美清演じる『寅さん』と、寅さんを見送る妹の『さくら』の銅像が建てられている。
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≪昭和初期の豪邸、山本亭≫

国の重要文化的景観の一要素となっている山本亭はカメラ部品を製造する会社の経営者だった山本栄之助が住んだ屋敷で、昭和初期までに増改築が行われ、完成した。
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門番が常駐していた出入口の長屋門は、伝統的な長屋門の形式でありながらもステンドグラスの窓があり、和洋折衷な建物となっている。
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玄関脇にある「鳳凰の間」と呼ばれる洋間は応接室として利用された。
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山本亭の庭は典型的な書院庭園で、書院造の和室から眺められるようになっている。
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13116-4 東京都豊島区(長崎)

東京都豊島区

3:長崎

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■2022年8月20日(土)

本記事では、長崎地域(旧長崎町)の歴史について記載する。

【歴史】

≪昭和を代表する漫画家が集住したトキワ荘≫

長崎地域の椎名町には、昭和を代表する漫画家が集住したトキワ荘があり、日本の漫画界に大きな影響を与えた。

太平洋戦争後の池袋には、映画館やデパートなどの商業・歓楽施設が次々に建てられ、10代・20代の若者層向けの木造賃貸アパートが周辺の長崎地域にも相次いで建てられた。
そのうちの1軒が、1952年に建てられたトキワ荘である。
雑誌「漫画少年」を発行していた学童社は、雑誌に漫画を連載していた手塚治虫にトキワ荘を紹介し、1953年に手塚がトキワ荘に入居した。
その後、手塚が藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐの2人にトキワ荘を勧めて2人が入居すると、トキワ荘には漫画家が相次いで入居するようになった。
トキワ荘の跡地は日本加除出版の本社になっており、トキワ荘のモニュメントが建てられている。
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トキワ荘は2020年に南長崎花咲公園に復元され、『トキワ荘マンガミュージアム』として開館した。
公園の出入口には、トキワ荘の漫画家を顕彰する『トキワ荘のヒーローたち』というモニュメントが建てられている。
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≪トキワ荘での生活の様子≫

トキワ荘の内部が、トキワ荘マンガミュージアムの2階に復元されている。
当時としてはごく普通のアパートで、炊事場や便所は共用だった。
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部屋は4畳半の和室で、基本的には1人1部屋使っていた。
部屋は生活の場であると同時に、漫画を描く作業場だった。
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なお、寺田ヒロオの作業場が、『トキワ荘通りお休み処』に復元されている。
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アパートには風呂場がなかったため、風呂は近くの銭湯に入りに行っていた。
中でも、トキワ荘に一番近かった「鶴の湯」に入りに行くことが多かった。
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トキワ荘の漫画家たちは映画や音楽などの娯楽に惜しみなくお金を使い、漫画の肥しにしていた。
南長崎一丁目交差点にあった『音楽喫茶エデン』や、目白通り沿いにあった映画館『目白映画』には、トキワ荘の漫画家が足繁く通っていた。
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老舗の中華料理「松葉」は、トキワ荘の漫画家のマンガでよく登場するラーメン店だった。
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≪トキワ荘の漫画家≫

トキワ荘に居住していた主な漫画家と、その漫画家を紹介するモニュメントが置かれている場所を以下に記載する。

・手塚治虫
代表作:「ジャングル大帝」、「鉄腕アトム」、「火の鳥」、「ブラック・ジャック」など
モニュメント:東長崎駅改札前
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・藤子不二雄Ⓐ
代表作:「怪物くん」、「忍者ハットリくん」、「笑ゥせぇるすまん」など
モニュメント:椎名町駅南口
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・藤子・F・不二雄
代表作:「ドラえもん」、「キテレツ大百科」、「パーマン」など
※モニュメントは無し

・赤塚不二夫
代表作:「天才バカボン」、「おそ松くん」、「ひみつのアッコちゃん」など
モニュメント:椎名町駅南口
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・石ノ森章太郎
代表作:「サイボーグ009」、「仮面ライダー」、「人造人間キカイダー」など
モニュメント:椎名町駅南口
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・水野英子(少女漫画の草分け的存在)
代表作:「ハニー・ハニーのすてきな冒険」、「星のたてごと」、「ファイヤー!」など
モニュメント:落合南長崎駅A2・A3出入口
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・よこたとくお(子ども向けの学習漫画を手掛ける)
代表作:「マーガレットちゃん」など
モニュメント:区民ひろば富士見台
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・鈴木伸一(藤子・F・不二雄の漫画のキャラクター『小池さん』のモデル)
アニメーターとしてトキワ荘の漫画家のアニメ制作に数多く携わる
モニュメント:南長崎公園
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・寺田ヒロオ(トキワ荘のリーダー的存在)
代表作:「背番号0」など
モニュメント:南長崎スポーツセンター
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プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で大田区在住

【職業】
2011年より社会人・SE
妻帯者

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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