18201-0 福井県福井市

福井県福井市

◼2014年8月2日(土):福井、一乗谷
◼2017年7月23日(土)~7月24日(日):福井

1:福井
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【歴史】

福井は、戦国時代から江戸時代にかけて城下町だった。
1575年、織田信長は、加賀の一向一揆に対する抑えとして、重臣の柴田勝家を越前に配した。
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勝家は福井に北の庄城を築いた。
また、一乗谷城下町から社寺や民家を北の庄城下に移転させ、城下町を築いた。
しかし、1583年に勝家は豊臣秀吉との戦に敗北し、自害した。
北の庄城跡は公園として整備され、勝家を祭神とした柴田神社が建立されている。
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勝家と、妻のお市の方の墓は、西光寺にある。
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勝家の後、北の庄城には、丹羽長秀、堀秀政など、名だたる武将が配された。
丹羽の墓は総光寺に、
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堀の墓は長慶寺にそれぞれある。
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江戸時代になると、城は北の庄城から福井城に移され、福井は福井藩の城下町になった。
福井城は、何重の堀に囲まれた平城であった。
現在、堀は殆ど埋められているが、内堀と内堀の石垣が現存する。
本丸跡には、福井県庁が存在する。
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福井城には四層五階の天守が建っていた。
天守台が現存する。
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福井城の建築物の一部が、瑞源寺の本堂、書院として移築され、現存する。
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福井城を建築したのは、福井藩初代藩主、結城秀康である。
秀康は、徳川家康の次男であるが、側室の子であり、結城氏に養子に出したため、家康から優遇されなかった。
それでも、関ヶ原の戦いの武功で、加賀藩に対する抑えとして、福井藩主に抜擢された。
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以降、結城松平を祖とする松平氏が幕末まで福井藩を治めた。
歴代藩主の墓は、大安禅寺の千畳敷にある。
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幕末の福井藩には、16代福井藩主を務めた、名君の誉れが高い、松平春嶽がいた。
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春嶽は身分に関わらず優秀な人材を登用し、藩政を立て直した。
これにより、橋本左内(詳細は偉人①を参照)、由利公正(詳細は偉人②を参照)等が福井藩、全国区で活躍した。
春嶽は将軍の跡継ぎ問題で敗北し、藩主の地位を追われた。
しかし、政敵の井伊直弼が暗殺された後は、幕府の要職に就任し、参勤交代の緩和や、洋式軍制の導入等、幕府の政治の改革を実施した。
明治維新では四賢侯の1人として活躍し、明治維新でも数年は新政府でも要職を務めた。
また、春嶽は福井藩でも改革を実践しており、その1つが留学生のアメリカへの派遣である。
日下部太郎を留学生に派遣したことで、明治時代初期には日下部と親交の深かったグリフィス(詳細は偉人③を参照)が教師として福井に招かれた。
春嶽は、福井神社に祀られている。
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福井は、1940年代に2度、壊滅状態になった。
1度目は1945年7月19日の空襲である。
空襲で殉職した福井郵便局電話課の職員の慰霊を目的に、大手観音が建立されている。
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2度目は1948年の大地震である。
被災した福井の様子は、福井大震災記念碑に刻まれている。
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しかし、福井は不死鳥の精神で復興を果たし、現在は福井県の中心地となっている。
訪れた日は、空襲と大震災による犠牲者を供養するため、福井城址の堀に灯りを流すイベント「お堀の灯り」が行われていた。
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【偉人】

①橋本左内
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橋本左内は、春嶽の藩主時代に、春嶽の右腕として暗躍した偉人である。
左内は、現在の常盤町に、藩医の子として生まれた。
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左内は幼少の頃から秀才で、勉強熱心であった。
15歳の頃には、自分が立派な人となるために、自らを激励し、言い聞かせるために啓発録を表した。
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左内は啓発録を実践し、大阪や江戸へ出て勉強を続けると同時に、佐久間象山など一流の学者に学び、識見を広めた。
22歳の頃、左内は春嶽に取り立てられ、将軍の跡継ぎ問題で一橋慶喜を将軍にするため、江戸や、朝廷の協力を得るために京都を往来し、奔走した。
しかし、大老に就任した井伊直弼の強引なやり方で跡継ぎは家茂になり、計画は失敗した。
そして、左内は安政の大獄で捕らえられ、26歳の若さで死刑となった。
左内の墓は、家族と共に左内公園にある。
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②由利公正
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由利公正は春嶽の右腕として、藩の財政を立て直す等の辣腕を振るった偉人である。
公正は横井小楠(しょうなん)に殖産興業、財政学等を学んだ。
小楠は革新的な考えを持った思想家で、熊本藩から政治顧問として迎えられていた。
当時、公正の家は現在の足羽川の河川敷にあったが、
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足羽川を挟んだ対岸に小楠の家があり、公正は度々学びに小楠の家を訪れたそうである。
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1858年には、一時帰国する小楠に公正は随行し、長崎へ向かった。
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公正は小楠から学んだ知識を活用し、オランダ商館に福井藩の生糸、醤油等を販売するルートを開拓した。
これにより、福井藩は巨額の赤字を全て返済し、巨額の富を得た。
巨額の富を得たことで、坂本龍馬が神戸海軍塾の資金調達に福井を訪れ、小楠、公正と親交を得た。
そのため、福井には龍馬の歌碑が建立されている。
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龍馬は公正を高く評価し、新政府の重役に登用することを心に決めていた。
実際に、公正は五箇条の御誓文の原案を作成し、東京の初代知事を務めるなど、明治維新、明治時代にも活躍した。
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③日下部太郎とグリフィス
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日下部太郎は、福井藩士の家に生まれ、福井藩初の留学生としてアメリカの大学で学んだ。
太郎は成績が極めて優秀だったが、卒業直前に結核で病死した。
福井には、太郎の記念碑『堕涙碑』が建立されている。
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太郎は生前、大学で先輩のグリフィスから古典語の指導を受けていた。
グリフィスは太郎の節度、勤勉さに心動かされ、日本に興味を抱いた。
グリフィスは大学を卒業後、牧師になるべく勉強を続けていたが、福井藩より呼ばれ、福井に来福し、理科の教師になった。
グリフィスのために建築した居宅が、グリフィス記念館として復元されている。
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グリフィスが福井で教師をした期間は1年にも満たなかったが、熱心に教鞭をとり、多くの学生に慕われた。
グリフィスは公正の誘いで現在の東京大学で教鞭をとった後、アメリカへ帰国した。
アメリカでは牧師をしながら、『ザ・ミカドズ・エンパイア』等、日本を紹介する著作を出版した。
約50年後の1927年、グリフィスは再度福井を訪れ、大いに歓迎された。
グリフィス記念館の前の日時計は、グリフィス夫人が寄贈したもので、台座は当時のままである。
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④橘曙覧
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橘曙覧(あけみ)は幕末に活躍した国学者、歌人である。
曙覧は福井城下の商人の家に生まれた。
生家は久保町交差点付近にあった。
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曙覧は家業を弟に継がせ、国学者として生活する傍ら、歌人として多くの歌を残した。
特に有名な歌が、独楽吟52首の連作である。
「たのしみは」から始まる歌は、生活の中にある素朴な楽しみを読んだ歌である。
この歌は、天皇の訪米を受けて、クリントン大統領が歓迎スピーチで引用した。
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また、曙覧の歌は正岡子規から高く評価され、国学者よりも歌人としての評価が高い。
曙覧は中年期に愛宕坂に 家族と居住しており、その跡に曙覧の記念文学館が建立されている。
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しかし、愛宕坂では水汲み等に苦労したため、家を藁屋に移した。
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曙覧の墓は大安禅寺にある。
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2:一乗谷

福井市街の東部に位置する一乗谷は、戦国大名、朝倉氏が築いた、戦国時代有数の城下町だった。

応仁の乱の頃から、越前は戦国大名朝倉氏が治めていた。
朝倉氏は一乗谷城を築き、谷に城下町や屋敷を敷設した。
城下町の出入口には土累が築かれ、防御力の高い要塞のような城下町であった。
城下町には武士、町人が1万人以上も住んでいた。
彼らはどの階級でも茶を嗜み、寺院が33もあったことから、京にひけを取らない文化的水準を有した都市だった。
しかし、京のような栄華を発達させた朝倉氏は戦国武将としての素質を欠くようになり、一時期匿っていた将軍足利義昭に見放されると、織田信長に敗れ、滅亡した。

【史跡】

①一乗谷朝倉氏遺跡

前述の通り、織田信長により城下町は一面が焼け野原になったが、綺麗に土に埋もれたため、遺構の保存状態が良く、百名城に選定されている。
昭和になってから遺跡が発掘され、現在も発掘調査や復原が実施されている。
出土品も非常に多く、戦国時代の人々の生活を知る上で大変貴重な史跡として、授業で使われることも多いそうだ。
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朝倉義景(よしかげ)館跡には、朝倉氏滅亡後に、最後の当主である義景の菩提寺が建立され、彼の墓が現在も存在する。
館跡のシンボルでもある唐門はその寺の門であった。
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義景はガーデニングが趣味だったようで、館跡には日本最古の花壇がある。
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朝倉氏は茶のために庭園をいくつも設置している。
その中の1つである諏訪館跡庭園には、日本最大の巨石(4メートル以上!)がある。
この石には、まだ見つかっていない朝倉氏2代~4代の当主の戒名が江戸時代に刻まれ、墓石となっている。
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15100-9 新潟県新潟市

新潟県新潟市

■2017年7月15日(土)~7月16日(日):新潟
■2017年7月17日(祝):小須戸、新津

1:新潟
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【歴史】

信濃川と日本海に挟まれた新潟市街地は、江戸時代から現在に至るまで、港町として大いに栄えてきた。

江戸時代の新潟は、1843年まで長岡藩に属していた。
新潟は北前船の港と信濃川の川湊を両方兼ねており、多くの物資や人が行き交いしていた。
当時の新潟は荷物を運搬・取引するため、堀割による水路が発達した。(写真はイメージと、寺町堀跡にできた道路)
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新潟には廻船問屋が48軒あり、その中では旧小澤家住宅のみ現存する。
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新潟は長岡藩の財政を支えていた。
長岡藩は新潟に奉行所を設置し、積み荷等に税金を掛け、藩の大きな財源にしていた。
奉行所は、ネクスト21と三越との間に位置していた。
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しかし、長岡藩は不景気でも一定の税金を掛けたため、新潟の町人たちは困窮した。
そこで、1768年に町人たちが立ち上がり、奉行所に武器を持って押し寄せた(新潟明和騒動)。
町人たちは一時期、自治を獲得したが、間もなく長岡藩に鎮圧され、首謀者2人が斬首された。
斬首は、町外れの三献刑場で執り行われ、跡地には2人の慰霊碑が建立された。
しかし、長岡藩が事件を隠蔽するため、碑文を削りとった。
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また、後述の白山公園には明和義人顕彰之碑が建立されている。
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江戸時代の新潟は、奉行所が設置されていたとはいえ、人口の殆どは町人で、港に関連する仕事に従事していた人が多かった。
新潟には一際高い山、日和山があり、入港する船の見張り等をしていた。
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航海では方角の把握が必要不可欠なため、日和山には方角石が設置されていた。
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時が経つにつれ、新潟港は土砂の堆積で日和山から遠くなったため、江戸時代末期に日和山を移した。
移転先の日和山は、現在、水戸教公園になっている。
なお、水戸教は宗教ではなく、水先案内や海難救助を生業とした人である。
風や波により河口部分の水深が変化するため、水戸教による安全な水路の確保、および案内が必要だった。
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新潟は廻船問屋や船乗りに従事する人が多かった。
しかし、このような仕事は航海を伴い、危険な仕事である。
そのため、新潟の人々は神様を篤く信仰し、神社を多く建立した。
例えば、寄合町の金刀比羅神社は、讃岐の金刀比羅宮を篤く信仰していた廻船問屋の主人の所有する船が遭難した時、船、乗船していた主人の息子、乗組員が遭難から助かったことに感謝し、建立したものである。
奉納されている絵馬には、金比羅大権現によって遭難から救われた様子が描かれている。
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当時は船の荷物の積み上げ、積み下ろしは人力で行っていた。
また、当時の帆船は風の力を主な動力にしていたため、適度な風が出るまで出港できなかった。
従って、船乗り達は湊に数日以上滞在することが多く、彼らのための歓楽街(花街、遊郭)が大いに発達した。
当時の新潟は、女性の方が人口が多く、芸妓や遊女が多かった。
現在でも花街は面影を残しており、新潟に芸妓が数人存在する。
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新潟の花街の建物の特徴は、通りに面して窓が少なく、小路に面して窓が大いことである。
また、小路に玄関を備えている建物が多く、通りに玄関が面している場合でも、左側に玄関を曲げており、右側に坪庭がある。
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老舗料亭かき正の創業者はホトトギスの同人であった。
そのため、高浜虚子、高野素十など著名な俳人がかき正で句会を度々開いていた。
入口には、素十や、虚子の息女である星野立子の句がある。
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芸姑は昔よりは減少したが、鍋茶屋と、
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行形亭の二大料理屋を初め、現在でも多くの料理屋が営業している。
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湊稲荷神社には、願掛け高麗犬がある。
願掛け高麗犬は回して動かすことができ、遊女は高麗犬を西に向け、海が時化て船乗りが出港できず、また船乗りが来店することを祈願したという。
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新潟には江戸時代から現存する小路が数多く残っている。
そのうちの1つである思案小路は、男が遊郭に遊びに行くか否か、思案小路の辺りまで行って迷った場所であることから名付けられたと言われている。
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1843年、幕府は長岡藩から新潟を召しあげ、天領とした(前述の長岡藩の奉行所を引き続き使用)。
表向きは、密貿易を取り締まれなかったためであるが、裏向きは新潟で発生する税金の獲得や、台場の設置に当たり日本海側で最も召しあげやすい地だったためと言われている。
天領新潟の初代奉行には、川村修就(ながたか)が着任した。
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川村は庶民生活の向上に尽力し、民衆に慕われた名奉行であった。
例えば、砂防においては海岸沿いに松を数キロ以上に渡り、植林した。
植林した松林は、現在も西海岸公園に残っている。
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幕末になると、新潟は日本海で唯一の開港五港に指定された。
その後、すぐにロシア、オランダの船が調査のため新潟に来港した。
幕府は当時の新潟で最も格式の高い願随寺を接待所とした。
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しかし、当時の新潟港は信濃川から運ばれた土砂により水深が浅く、外国船の入港が困難だった。
加えて、後述する戊辰戦争の勃発で、新潟港が実際に開港したのは明治時代に入った1869年だった。
開港後も、実際に外国船は殆ど来港せず、新潟港が近代港湾になったのは、浚渫や分水が進んだ大正時代のことであった。

戊辰戦争において、新潟は戦場となった。
米沢藩家老、色部長門か率いる旧幕府軍は、新潟に陣を構えた。
一方、新政府軍は、新発田藩が寝返りで傘下に加わったことから、海から砲撃を実施しただけでなく、新潟を挟み撃ちにした。
色部は早々と新潟を退去し、解散命令を出した。
ところが、その後、色部と米沢藩士は道に迷い、新政府軍と遭遇し、壮絶な戦を繰り広げた。
これにより、色部を含む28人の米沢藩士が戦死した。
米沢藩士4人は、念仏寺に葬られている。
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戊辰戦争後、新政府軍は旧幕府軍の戦死者を捨て置くよう、町の人々に周知した。
町の人々はこっそり砂丘に旧幕府軍の戦死者を埋葬した。
ところがその後、新政府は旧幕府軍が埋葬された場所に新政府軍の戦死者の墓を造営し、招魂社を建立した。
招魂社はしょうこん坂を上がりきった場所に位置し、参道の一部が現存する。
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戦時中、魂招社は海岸沿いに移され、護国神社となった。墓も同じく移転され、戊辰の役殉難者墓苑となっている。
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墓苑には、旧幕府軍の戦死者に対する慰霊碑が建立されている。
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色部は、即座に新潟を退去したことで、結果的に新潟を戦火から守った。
これを惜しんだ人々は、色部が戦死した場所の辺りを戊辰公園として整備し、色部長門追念碑を建立した。
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また、新潟大神宮には、戊辰戦争における会津藩士の戦死者の慰霊を目的に、殉節之碑が建立されている。
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明治時代になると、廃藩置県により新潟県が発足し、新潟県令には楠本正隆が就任した。
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楠本は新潟を開港にふさわしい町にしようと、道路、水路の整備等、都市基盤整備を実施した。
また、全国で初の市民公園「白山公園」(当時は、新潟遊園)を開き、現在でも市民の憩いの場になっている。
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白山公園には、新潟遊園建設の由来を記した碑があり、三条実美が揮毫した。
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また、明治時代には、新潟の発展のために、萬代橋が架けられた。
当時の信濃川の川幅は、現在の2倍以上あり、流作場五差路まで信濃川だった。
流作場五差路には、それを示す萬代橋の柱が設置されている。
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また、萬代橋は、戊辰戦争で敵対した天領(長岡藩)と新発田藩領沼垂とを結んでおり、和解の象徴でもあった。
現在の萬代橋は、昭和初期に建てられた3代目で、国の重要文化財に指定されている。
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戦時中、新潟は幸いにも大規模な空襲はなかった。
しかし、港にはアメリカ軍の機雷が投下され、港町としての機能を封じられた。
1945年8月10日、アメリカ軍の戦闘機、グラマンF6Fヘルキャット16機が新潟の上空を飛来した。
新潟港に停泊していた軍用船「宇品丸」は、グラマンF6Fヘルキャットに攻撃を仕掛け、撃墜しようとした。
しかし、反撃を受け、宇品丸では乗組員19人が戦死し、多数の乗組員が負傷した。
それでも、新潟では、宇品丸の攻撃でB29による町への空襲がなかった(元から町を空襲するつもりはなかったとの説もある)。
北部公園には、宇品丸慰霊碑が建立されている。
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新潟では、宇品丸以外にも、徴兵で戦死した人々、アメリカ軍の設置した機雷で死んだ人が多数おり、戦争と無縁ではなかった。
前述の水戸教公園には、平和記念碑が建立されている。
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戦後の高度経済成長期の新潟では、天然ガスなどの掘削で、地盤沈下が発生した。
また、環境汚染により、堀割では異臭が発生した。
1964年に新潟で国体を開催するに当たり、市民は堀割を埋め、道路にした。
このような経緯で、新潟から堀割が消え、民家は新しいものに次々に建て替えられた。
しかし、近年では新潟のかつての景観を取り戻す動きが高まり、早川堀通りが整備され、水路が敷設された。
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2:小須戸

【歴史】

新潟市秋葉区の南西に位置する小須戸は、江戸時代、信濃川の舟運で栄えた町だった。
小須戸は信濃川で運ばれる物資の中継地だった。
近隣の米を中心とした物資が小須戸に集積され、信濃川を通じて新潟へ運ばれた。
小須戸には小路が現存しているが、その中の1つであるお蔵小路は、蔵から舟に米を積み出す際に使用されたと伝えられている。
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小須戸には信濃川の渡船があり、人だけでなく、馬市のために馬も信濃川を渡った。
しかし、中には舟に馬を乗せすぎて渡船中に舟が沈没し、何頭もの馬が溺死したことがあったそうだ。
その馬たちを供養するため、馬頭観音が設置されている。
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明治時代になると、信越線の開通で舟運は衰退した。
しかし、小須戸には特産品である小須戸縞があった。
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小須戸では小須戸縞を中心とした繊維産業が戦前まで盛んで、織物工場が立ち並んでいた。
現在でも僅かに工場の遺構が残っている。
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また、長屋には出稼ぎに来た人たちが居住していた。
長屋の一部が現存する。
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1901年、小須戸では町の建物の8割が焼失する大火があった。
大火の後、町人たちはこぞって町家を再建した。
この町家が現在でも現存し、昔の面影を残している。
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小須戸では同時期に町家を再建したため、隣同士で敷地の境界を凸凹状に共有していた。
そのため、小須戸の町家の側面はいびつな形をしている。
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小須戸の町家は妻入りが基本であるが、写真のように一部の町家は平入りである。
なお、小須戸の町家の特徴は、屋根の三角部分に二重に板を付けた「鼻隠し」があることである。
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小須戸の町家は玄関から店、茶の間と続く。
茶の間には神棚が設置され、神様を見下ろさないように、茶の間の上に2階は造っていない。
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小須戸の町家の中については、薩摩屋で見学することができる。
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古い町並みの保存を近年推し進めている小須戸であるが、2010年に大規模な火災に見舞われた。
この火災で20棟が焼失し、趣ある町の景観が一部失われてしまった。
町中の写真の電灯のみ、火災の被害を受けたまま付け替えられず、火災の記憶を残している。
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3:新津

【歴史】

新潟市秋葉区の中心地である新津は、明治から戦前にかけ、石油の採掘で栄えた。
新津では石油を採掘できる層が地表近くにあり、地層を見ると黒っぽい石油の層があることが分かる。
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新津の南東に位置する金津には、石油の里公園があり、石油を採掘し、送った遺構が残っている。

原油は機械で井戸から汲み上げられた。
かつての新津や金津では、このような井戸が密集していた。
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汲み上げられた原油は濾過池に送られ、人力で大まかに原油と水に分離された。
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濾過池を通過した原油は、集油タンクに送られた。
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集油タンクを通過した原油は、水切りタンクで水切りされた後、さらに純度を上げるため、直接火がつかないように加熱させられた。
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このような過程で純度の高い原油が生成され、パイプラインで川や液に送られ、新潟の関屋の化学工場などに輸送した。
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09215-1 栃木県那須烏山市

栃木県那須烏山市

■2017年7月9日(日)

1:烏山
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【歴史】

中世の烏山には烏山城があり、那須氏の居城だった。
那須氏の墓は天性寺にある。
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烏山城は烏山駅の北西に位置する八高山に築城された。
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城跡には石垣や、
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堀切などの遺構が残っている。
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江戸時代の烏山は、烏山藩の城下町だった。
烏山藩主は目まぐるしく変わったが、1725年に大久保常春が烏山藩主になると、幕末まで大久保氏が烏山藩を治めた。
常春は、徳川吉宗の下で活躍し、老中にまで出世した。
また、烏山藩で様々な施策を実施し、領民から名君として慕われた。
江戸時代の藩主の館が置かれた烏山城三の丸跡には寿亀山神社があり、常春が祀られている。
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また、境内には常春の顕彰碑がある。
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江戸時代後期の烏山藩は、財政難に陥っていた。
そこで、前述の天性寺の住職である円応と、家老の菅谷八郎右衛門は、二宮尊徳の報徳仕宝を導入し、財政の立て直しを図った。
天保の飢饉において、円応と菅谷は、天性寺に御救小屋を建て、窮民に粥を施し、救った。
御救小屋を建てた跡は、円応公園になっている。
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天性寺には、菅谷と、
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円応の墓もある。
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【祭り】

①山あげ行事
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山あげ行事は、烏山の八雲神社の例祭で、最近、ユネスコ無形文化遺産に登録された。
八雲神社は、烏山城主、那須資胤が領内で猛威を振るった疫病の退散を祈願し、牛頭天王社を勧定したのが始まりと伝えられている。
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山あげ行事は、八雲神社の奉納余興として始まり、それが豪華絢爛な移動式の野外歌舞伎に発展した。
最大の特徴は、網代状に竹を組んだ木枠に、烏山名産の和紙を幾重にも貼り、山水を描いた「はりか山」である。
「はりか山」を背景に、山車から変形した舞台で、野外歌舞伎が上演される。
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山あげ行事のことは、山あげ会館で学ぶことができる。
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訪れた日は山あげ行事を再来週に控えていたため、炎天下の中、地元の人たちが祭りの準備をしていた。
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09343-2 栃木県茂木町

栃木県茂木町

■2017年7月9日(日)

1:茂木
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【歴史】

中世の茂木には茂木城があり、茂木氏の居城であった。
茂木氏は八田知家の3男、八田知基を祖とする。
茂木城は茂木駅の北側に聳え立つ山に築かれた山城である。
茂木城跡は現在、城山公園として整備されている(写真は本丸跡)。
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茂木城跡には、出丸と千人溜を隔てる空堀など、遺構が残っている。
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茂木城跡の北東に位置する荒橿神社は、茂木城の鬼門除けとして祀られたと伝えられている。
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荒橿神社には、戦国時代に三重塔が建立されていた。
現在も初層の部分のみが現存し、阿弥陀堂と呼ばれている。
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江戸時代の茂木は、谷田部藩(現在の茨城県つくば市)の飛び地で、陣屋が置かれていた。
谷田部藩は細川忠興の弟、興元が関ヶ原の戦いの武功で大名になり、立藩したものである。
興元は当初、茂木に一万石の所領を得たが、後に谷田部に六千石の加増を受け、江戸に近い谷田部に藩庁を移した。
町民センターの一角に、陣屋跡の石碑が建立されている。
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細川氏は幕末まで谷田部藩主を務めた。
細川氏の墓は茂木駅から数キロ離れた能持院にある。
墓石の代わりに杉の木を1本植え、廟の前に没年月日を記した石燈籠を建立しており、独特な形式である。
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江戸時代後半の茂木領は、長年の冷害による飢饉で、荒廃していた。
そこで、家老の中村勧農護は二宮尊徳に教えを請い、尊徳仕法を茂木領で実践し、茂木領を復興し、藩の財政を建て直した。
中村勧農衛の墓も、能持院にある(「中村家之墓」の墓石の左隣の墓)。
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茂木の主産業はたばこだった。
茂木城跡本丸のすぐ下には、煙草栽培の祈願所であるたばこ神社があり、葉煙草栽培の指導者、三上宗太郎の碑が隣に建立されている。
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09209-6 栃木県真岡市

栃木県真岡市

■2017年7月8日(土)

1:真岡
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【歴史】

戦国時代の真岡には真岡城があり、芳我氏が治めていた。
真岡城は台地の一番高い場所に築城された。
真岡城跡は、現存、真岡小学校になっている。
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江戸時代になると、真岡は最終的に天領になり、代官所が設置された。
代官所は、真岡城の傍にあった。
現在は、城山公園になっている。
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真岡に勤務した代官の中には、領民に慕われた名代官がいた。
竹垣直温は、天明の飢饉で疲弊していた領内の農村を救うために、様々な施策を実施した。
海潮寺には、竹垣の善政を顕彰するため、竹垣君徳政碑が建立されている。
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かつての真岡の主産業は木綿で、江戸時代は木綿の半数以上が真岡の木綿だった。
木綿で財を成した商人のうち、岡部氏の豪邸、金鈴荘が現存する。
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2:二宮

【歴史】

真岡から数キロ南に位置する二宮は、小田原藩の飛び地、桜町領だった。
桜町領は、小田原藩主大久保氏の分家、宇津氏が治めていた。
陣屋跡は、後述の二宮尊徳が桜町領に勤務していた頃の様子に復原されている。
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しかし、江戸時代後半には、桜町領は石高4000両に対し、実質石高が1000両に満たないほど荒廃していた。
そこで、桜町領の復興を任されたのが、二宮尊徳であった。
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尊徳は毎日領内の村々の見廻りを実施したり、村人の生産意欲を高めるために表彰制度を導入したりする等、桜町領復興のため、様々な施策を実施した。
また、灌漑用水の工事を実施し、その中の1つである大前堰が現存する。
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尊徳の施策について、初めは反対者が少なくなく、妨害する人もいた。
それでも、尊徳が桜町領復興のために成田山で21日間の断食をしたことを村人が知ると、皆が尊徳を信頼するようになり、15年程かけて桜町領は復興を遂げた(人口と年貢米が回復した)。
その後、尊徳は幕府に取り立てられ、桜町領で培った思想やノウハウで各地の復興を成功させた。
尊徳は、桜町二宮神社に祀られている。
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また、尊徳の遺髪を埋めた墓が、領主宇津氏たちの墓の傍にある(二宮金次郎墓域)。
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桜町陣屋跡の近くに、明治時代に尊徳の偉業を顕彰し、報徳訓碑が建立された。
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12208-4 千葉県野田市

千葉県野田市

■2017年7月2日(日)

1:野田
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【歴史】

野田は江戸時代から醤油の醸造で栄えた。

野田で最初に醤油を醸造したのは、室町時代の永禄年間と伝えられている。
野田で最初に醤油を醸造した地には、「野田の醤油発祥地」碑が建立されている。
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野田が醤油の醸造で繁栄したのは、江戸時代後期である。
繁栄の背景には、利根川、江戸川の舟運が発達していたこと、江戸に近いことが挙げられる。
安心坊には、醤油造り蔵人の霊を祀る倉働人群霊墓がある。
なお、その隣は、天保の飢饉の際、醤油醸造家の救小屋を求め、野田で亡くなった人たちの墓である。
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大正時代になると、野田と流山の醸造家8家が合同でキッコーマン㈱を設立した。
野田はキッコーマンの企業城下町になり、現在もキッコーマンの本社が野田(野田市駅から徒歩圏内)にある。
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キッコーマンの設立に携わった茂木佐平治家の邸宅は、現在、市民会館として利用されている。
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2:関宿
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【歴史】

戦国時代の関宿には関宿城があり、古河公方の家臣、簗田氏が築城したと伝えられている。

江戸時代になると、関宿は関宿藩の城下町となった。
江戸と地方を往来する船が必ず関宿を通るため、関宿には関所が設置された。
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そのため、関宿藩には親藩・譜代大名が配された。
関宿藩の初代藩主は、徳川家康の異父弟である松平康元であった。
康元の墓は宗英寺にある。
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その後、藩主は目まぐるしく変わったが、1669年に久世広之が藩主になると、一時期を除き、幕末まで久世氏が関宿藩主を務めた。
なお、久世氏は3人が老中を務め、幕府の中枢でも活躍した。
関宿城は、河川改修等で遺構が殆ど残っていないが、本丸跡に石碑が建立されている。
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関宿城の建物の一部は、実相寺に現存する。
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【偉人】

①鈴木貫太郎
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鈴木貫太郎は、関宿藩士の家に生まれた。
鈴木は海軍に入隊し、数々の功績を挙げた後、侍従長になり、昭和天皇に仕えた。
鈴木は1936年の二・二六事件で襲撃されるも、奇跡的に生還し、その後は枢密院議長を務めた。
1945年4月には昭和天皇の懇願で鈴木は総理大臣に就任し、終戦に反対する陸軍の暴動を起こすことなく、太平洋戦争の終戦を実現した。
墓は前述の実相寺にある。
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鈴木は終戦後、関宿に隠居した後、産業振興のため関宿の若者を教育し、関宿で酪農を盛んにした。
鈴木の屋敷跡には、鈴木の死後に集乳所が設置され、記念碑が建立された。
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高知県まとめ

高知県まとめ

【歴史概要(江戸時代以降)】

・高知県は土佐国と呼ばれていた。
ただし、幡多地方は古代以前は波多国と呼ばれ、土佐国と別国だった。
・江戸時代の高知県は、ほぼ全域が土佐藩だった。
・土佐藩は幕末の日本では薩長土肥の一角として、明治時代でも自由民権運動の先駆けとして全国レベルで大活躍した。
そのため、幕末から明治時代にかけて史跡や逸話が多数存在する。
・土佐藩は明治維新において、幕府にも比較的寄り添った立場をとっていた。
中浜万次郎が米国や海外の事情を、河田小龍の協力を得て伝えたこと、土佐藩主が佐幕寄りであったことが一因と考えられる。
・しかし、高知の歴史で忘れてはならないのは野中兼山である。
兼山は土佐の至る所でインフラを整備し、土佐の基礎を築いた。
そのため、兼山関連の史跡が数多く存在する。
しかし、急進的なやり方に反発も多く、失脚した。
また、失脚後に家族全員が幽閉され、家を断絶された。
・高知県の東部は、簗瀬杉による林業が盛んで、明治から昭和中期にかけて特に栄えた。
当時の繁栄ぶりを残す古い町並みも多く残る。

【主な市町村の歴史の概要】

《高知市》
・高知
土佐藩城下町。
土佐藩は、幕末の日本で、薩長土肥の一角として、明治維新で大活躍した。
明治時代には自由民権運動の先駆けとなり、時代をリードした。
そのため、高知には幕末から明治時代の史跡、逸話が多数存在する。

《南国市》
・前浜
高知空港は、戦時中は軍用飛行場で、掩体を中心にその歴史を残す。

《香美市》
・山田
野中兼山が造った町。
野中兼山、野中婉、谷秦山に関連する史跡がある。

《香南市》
・夜須
野中兼山が造った港町。
また、太平洋戦争の敗戦直後に大事故が発生した。
・赤岡
土佐東海道の宿場町。
庶民の絵師、絵金がいたことでも有名。

《安芸市》
・安芸
家老五藤氏の城下町。
三菱の創業者、岩崎弥太郎の出身地。
武士の町並みは重伝建に指定。

《安田町》
・安田
幕末には塾が多く、教学の地であった。
その中の1つは、坂本龍馬の親戚で、坂本家の断絶を防いだ。

《田野町》
参勤交代の宿場町。
幕末には郡奉行所が設置され、安芸郡の中心地に。
また、野根山二十三士が処刑された地で、関連史跡が豊富にある。

《北川村》
中岡慎太郎の故郷。
中岡慎太郎ゆかりの史跡が数多くある。

《奈半利町》
宿場町で、野根山街道の起点。
有形登録文化財の民家が多数残る。

《室戸市》
・吉良川
土佐備長炭を中心とした林業で栄えた町。
町並みは重伝建に指定。
・室戸
捕鯨と遠洋漁業の基地、室津港の港町。
室津港は多数の労力と犠牲により誕生した。
・室戸岬
空海修業の伝説と、野中兼山が創った港。

《東洋町》
・甲浦
国境沿いの港町で、番所が設置された。
国境沿いのため人の往来が多く、江藤新平、種田山頭火などの秘話がある。

《いの町》
・伊野
土佐和紙の生産で栄えた町。

《佐川町》
・佐川
筆頭家老深尾氏の城下町。
郷校を早くから開設したことで文教のまちとなり、幕末から明治時代にかけて田中光顕、牧野富太郎などの偉人を輩出。

《須崎市》
・須崎
郡奉行所。
幕末は異国船対策として台場が築かれ、そのうちの1つが現存する。

《中土佐町》
・久礼
典型的な漁師町。
国の重要文化的景観に選定。
漫画「土佐の一本釣り」で有名になった。

《宿毛市》
・宿毛
宿毛山内家(山内一豊の姉の子孫)の城下町。
土佐随一の文教の町で、幕末から昭和前期にかけて20人以上の偉人を輩出。
また、野中兼山の遺児が流され、幽閉された地でもある。

《土佐清水市》
・中浜
日米友好の原点であり、幕末の日米間の架け橋になった中浜万次郎の故郷。

《四万十市》
・中村
公家大名の土佐一條氏が造った町で、全国京都会議に加盟している。
江戸時代は中村藩(土佐藩支藩)⇒郡奉行所。
幸徳秋水などの偉人を輩出。

09202-9 栃木県足利市

栃木県足利市

■2017年6月25日(日)

1:足利
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【歴史】

足利は、室町幕府を開いた足利氏の発祥の地である。
平安時代末期、足利荘を本拠地としていた源義康は、本拠地の知名である足利姓を名乗った。
義康は、源義家を祖父に持つ、清和源氏の名門である。
義康の子孫が、室町幕府を開いた足利尊氏である。
義康は、鎌倉時代の初め、父が建立した館に隠居し、持仏堂を建立した。
これが、鑁阿(ばんな)寺の始まりである。
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なお、鑁阿寺がある足利氏館跡は、当時の豪族の館の遺構が残っており、百名城に指定されている。
館は、外敵に備え、堀や土手で囲まれていた。
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15世紀になると、足利は管領上杉氏の武将、長尾氏が治めた。
長尾氏の墓は長林寺にある。
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長尾氏の特筆すべき功績は、足利学校の復活である。
足利学校の創建には諸説あるが、儒学、兵学、医学などを幕末まで教えた、日本最古の学校である。
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江戸時代の足利は、1704年より足利藩の城下町となった。
初代藩主は、徳川綱吉から重宝されていた戸田忠利である。
戸田氏は、幕末まで足利藩の藩主を務めた。
陣屋は、雪輪町にあった。
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足利は古くより絹織物が盛んで、明治時代から戦後にかけて絹織物が足利に富をもたらした。
足利には、当時の絹織物の工場が一部現存する。
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39304-5 高知県安田町

高知県安田町

■2017年6月18日(日)

1:安田
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【歴史】

安田は幕末を中心に、教学の地であった。
土佐くろしお鉄道安田駅の近くに、教学の碑が建立されている。
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安田には私塾が数件開かれており、岩崎弥太郎など数多くの偉人が学んだ。
例えば、安田には著名な儒学者、岡本寧浦がいた。
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寧浦の生家は、乗光寺である。
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また、高松順蔵は文武両道の郷士で、安芸郡の数多くの志士を育成した。
また、妻は坂本龍馬の長姉の千鶴であることから、龍馬は度々義兄にあたる順蔵の家を訪れたという(写真は屋敷跡)。
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順蔵の子供は坂本龍馬と坂本家の養子となり、北海道開拓など、龍馬の夢を引き継ぎ、実現させた。
順蔵と千鶴の墓は、常行寺跡にある。
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教学の地である安田からは、著名な志士を輩出している。
例えば、野根山二十三士の副リーダーの清岡治之助は、安田の庄屋の家の出身である。
屋敷跡に、碑が建立されている。
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39303-7 高知県田野町

高知県田野町

■2017年6月18日(日)
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【歴史】

江戸時代の田野は、土佐藩の参勤交代が通る街道の宿場町だった。
また、田野は昭和中期まで梁瀬杉の集積地で、江戸時代には林産業や回船業を商う豪商が生まれた。
中でも、岡家は苗字帯刀をはじめ、数々の特権を許された豪商である。
岡家は参勤交代において本陣として使用され、書院造の建物は岡御殿と呼ばれている。
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岡御殿の上段の間は、欄間の幾何学的な模様が非常に細かい。
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上段の間は殿様専用で、殿様専用の門から近い。
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岡家の分家は脇本陣として使用された。
近年、修復され、当時の面影が甦っている。
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建物の内部についても、ベンガラの壁の床の間を有し、豪華な造りである。
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岡家以外にも、田野には古い商家が所々に現存する。
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幕末の田野には、安芸郡の奉行所が建設され、田野は安芸郡の中心地になった。
また、奉行所には藩校、田野学館が併設され、中岡慎太郎をはじめ、多くの志士が学んだ。
跡地は、現在、中芸高校になっている。
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【出来事】

①野根山二十三士の処刑
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幕末の土佐藩では、勤王思想に目覚めた志士が藩内の各地にいた。
しかし、土佐藩主、山内容堂は志士たちを弾圧し、勤王党首である武市半平太たちを投獄した。
彼等を救出するため、行動を起こしたのが、安芸郡の志士23人である。
リーダーの清岡道之助は、田野の庄屋を務めており、屋敷が現存する。
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道之助が勤王思想を抱いたのは、田野学館の道場で学生を指導していた半平太との出会いが大きかったと伝えられている(写真は道場跡)。
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志士たちは岩佐関所に集結し、半平太たちを釈放するよう嘆願書を提出した。
しかし、嘆願書は却下され、志士たちは反乱軍と見なされたため、土佐藩を脱出することを決定した。
運悪く嵐だったため、陸路で徳島藩領に逃げたが、土佐藩の追っ手に捕まってしまった。
志士たちは土佐藩に送り返され、奈半利川の河畔で問答無用で処刑された。
処刑場所と推定されている地は、二十三士公園として整備されている。
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公園内には、二十三士の碑が建立されている。
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二十三士の墓は、福田寺にある。
なお、福田寺は志士たちの会合の場になった場所でもある。
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福田寺には、他に二十三士の顕彰碑が建立されている。
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カテゴリ
プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で東京在住

【職業】
(平日)2011年より社会人・SE
(休日)旅人

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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