37364-8 香川県直島町

香川県直島町
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■2017年11月12日(日)

【歴史】

直島は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、高原氏の城下町だった。
高原氏初代の高原次利は、備中高松城の水攻めで武功を上げ、直島、男木島、女木島の3島600石の所領を得た。
次利は、直島に高原城を築城し、城下町を整備した。
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次利の子、次勝(2代)は、関ヶ原の戦いで東軍に味方し、直島を引き続き拝領し、旗本寄合となった。
しかし、高原氏は1671年に改易され、直島における高原氏の支配は90年ほどで終了した。
高原氏の墓は高原寺廃寺にある。
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また、極楽寺の山門には、高原氏の家紋、船印が刻まれている。
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高原氏の改易後、直島は天領となり、代々三宅氏が庄屋を務めた。
三宅氏の住宅(大三宅)が現存し、国の登録有形文化財になっている。
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大正時代になると、直島には三菱の製錬所が設立された。
直島に設立された理由としては、当時としては煙害が発生する懸念が少ない、等が挙げられる。
現在は、三菱マテリアル株式会社の直島製錬所として、貴金属、銅を製錬している。
また、製錬所は2003年より、「エコアイランドなおしま」プランの一環で、リサイクル事業を手掛けている。
リサイクル事業では、産業廃棄物を出さず、また、産業廃棄物から、銅、製錬課程で必要な触媒、熱エネルギーなどを生成することで、資源とエネルギーのリサイクルを実現している。
リサイクル事業により、豊島で問題となっていた産業廃棄物を無くすことに大いに貢献した。
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平成になり、直島はベネッセホールディングスと福武財団が展開するアート活動の舞台となっている(ベネッセアートサイト直島)。
この活動により、直島では観光業が盛んになり、外国人観光客も多く訪れている。
島にはアート作品がいくつか屋外に展示されている(写真は、草間彌生氏の作品で、赤かぼちゃ)。
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また、アート活動の一環の家プロジェクトでは、直島の古民家をアート作品として活用している(上写真はANDO MUSEUM、中・下写真は角屋)。
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37201-3 香川県高松市

香川県高松市

1:高松
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■2014年2月2日(日)
■2017年11月11日(土)~11月12日(日)

【歴史】

江戸時代の高松は、高松藩の城下町だった。
高松藩の基礎を築いたのは、豊臣秀吉の重臣である、生駒正親である。
正親は、1587年に秀吉から讃岐国17万石を与えられると、高松に高松城(詳細は史跡①を参照)と城下町を築いた。
正親の墓は、弘憲寺にある。
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関ヶ原の戦いにおいて、正親は西軍についたが、子の一正が東軍につき武功をあげたため、戦い後も生駒氏が高松藩を治めた。
生駒氏は一正、正俊、高俊と高松藩を治めたが、高俊の代で御家騒動(国家老と江戸家老の権力争い)が勃発し、1640年に矢島1万石に改易されてしまった。
一正、正俊の墓は、法泉寺にある。
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1642年、高松藩の領土が東讃岐国12万石になり、松平頼重が高松藩主に就任した。
頼重は、水戸徳川家、徳川頼房の長男で、徳川光圀の兄に当たる。
頼重は側室の子で、かつ、頼房の兄である尾張徳川家、紀州徳川家にまだ男子が産まれてなかったことから、頼房は頼重を跡継ぎとせず、他家で密かに養育させた。
その後、頼房の正室から成人になった男子は産まれず、同じ側室から産まれた光圀が、水戸徳川家を相続した。
しかし、光圀は実兄である頼重を案じ、息子を交換(光圀の子は高松藩に、頼重の子は水戸藩にする)することで、血筋を正常な状態に戻した。
高松藩は、幕末まで、水戸徳川家の分家が治めたが、上記の経緯があったため、水戸藩から高松藩主に就任する例が少なくなかった。
家系図を見ると、いかに水戸徳川家(水戸藩)と高松松平家(高松藩)が血筋的に密接な関係だったことが分かる。
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高松藩主の墓は、浄土宗の法然寺にある。
但し、水戸徳川家から高松藩主に就任した殿様は、水戸徳川家が儒教のため、法然寺には墓はない。
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【史跡】

①高松城
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高松城は、瀬戸内海に面し、海水を引き入れた三重の堀に囲まれた海城である。
天守閣の跡から、高松城が瀬戸内海に面していることが分かる。
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高松城の内堀が現存し、海水が引き入れられている。
そのため、内堀にはクロダイ、スズキ等の魚を見ることができる。
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海水が引き入れられているため、内堀の水位は満潮時、干潮時で変化する。
現在は水門を設け、水位を調節している。
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以上のように、高松城は海城の特徴を残しているため、百名城に選定されていると同時に、日本三大水城に数えられている。
海に面しているため、藩主の参勤交代は高松城から直接、船を使用できた。
水手御門は、高松城の海の玄関口だった。
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水手御門と渡櫓で接続されている月見櫓は、海手側の監視防備の役割を兼ね備えていた。
月見櫓は、入母屋、唐、切妻の3種類の破風が付けられている。
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高松城の天守閣は、四国一の大きさと推定されている。
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高松城の石垣は、瀬戸内海の海岸の岩を使用している。
従って、石垣には、貝が付着している石が見られる。
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江戸時代、高松城内には御殿があった。
御殿は明治時代に老朽化のため取り壊されたが、その後、高松松平氏が跡地に別邸(披雲閣)を建築し、戦後まで所有していた。
別邸には、昭和天皇が宿泊したことがある。
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②栗林公園
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栗林公園は、生駒高俊が紫雲山を借景に築庭したのが始まりで、引き継いだ高松松平氏が5代かけて完成させた庭園である。
栗林公園には下屋敷が設けられ、藩主が娯楽を楽しむ別荘地だった。
東京ドーム3個分ある広大な庭園は、特別名勝に指定され、あらゆる地点から絶景を臨むことができる。
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江戸時代、栗林公園の一部は狩場で、カモの狩猟が行われていた。
狩猟方法としては、エサでカモを狭くて深い堀に誘き寄せ、大きな網で捕獲するというものだった。
当時のカモを狩猟した設備(鴨場)が復元されている。
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築庭当時、栗林公園にはクリの木が多く自生していたため、栗林公園に設けた高松藩主の下屋敷は栗林荘と名付けられていた。
しかし、鴨場を確保するため、クリの木は伐採され、現在の栗林公園の主役は、1400本植えられている松である。
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栗林公園には、江戸時代から日暮亭と呼ばれる茶室があった。
なお、高松松平氏の茶道を指南したのは、千宗守を祖とする武者小路千家である。
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38206-0 愛媛県西条市

愛媛県西条市

1:西条
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■2017年11月5日(日)

【歴史】

江戸時代の西条は、西条藩の城下町だった。1636年、一柳直盛は、神戸藩(三重県鈴鹿市)から、先祖の出身地である伊予国に国替えとなり、兼ねてからの希望が叶った。
ところが、直盛は伊予国へ赴任する途中に病死してしまった。
そこで、直盛が拝領するはずだった領地は、直盛の3人の子供に分配されることになった。
川之江・小野(播磨)は次男の直家に、小松(詳細は2項を参照)は三男の直頼に、そして、西条は長男の直重に分配された。
このような経緯で、一柳氏の本家を藩主に西条藩(3万石)が立藩したが、1655年に一柳氏は改易されてしまった。
直重は、西条に陣屋を築き、城下町を整備した。
陣屋跡は、西条高校などの公共施設となっている。
現存する大手門は、西条高校の正門になっている。
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陣屋の建物の遺構として、他には北御門が陣屋跡の南側に修復・移築されている。
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陣屋は堀に囲まれていたが、一部が現存する。
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その後、1670年に西条藩には徳川頼宣の次男、松平頼純が入封した。
以降、西条藩は紀州徳川家の分家が治めた。
歴代藩主は、西條神社に祀られている。
そのため、西條神社の山門には、葵の御門が付いている。
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明治時代以降、西条は2人の偉人を輩出した。
2人に関連する史跡は、楢本神社に集約されている。
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1人目は、真鍋嘉一郎である。
真鍋は、日本の物療内科の先駆者であり、東京大学の教授などを歴任した。
真鍋の生家が、楢本神社に移築されている。
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2人目は、関行男である。
関は、第二次世界大戦において、初の神風特別攻撃隊(特攻隊)である敷島隊の隊長を務めた。
また、自らも特攻で戦死し、後に二階級特進となり、戦時中は軍神として崇められた。
関の慰霊碑が、楢本神社に立っている。

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また、境内には、戦艦大和の主砲弾をモニュメントにした特攻将兵慰霊の塔がある。
関の慰霊碑と合わせて、戦争の悲惨さを伝えている。
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【名物】

①うちぬき

西条は、石鎚山から流れる加茂川の伏流水の恩恵を受け、地下水が非常に豊富な地域である。
西条の場合、地下水の下は粘土層になっており、その下をさらに深層地下水が流れている。
従って、西条では地面深くにパイプを突き刺すと、深層地下水がパイプを通り地表に吹き上がり、自噴水となる。
これがうちぬきである。
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西条の人々は、うちぬきの存在のお陰で、水道、および水道代は不要であった。
西条の人々はうちぬきの水を生活用水、飲用水、野菜などの洗いに利用していた。
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また、明治時代に開通した予讃線は、蒸気機関車に欠かせない水を確保するため、西条を終点とした。
その名残として、伊予西条駅に給水塔が現存する。
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西条の人々に不可欠なうちぬきは、現在、西条の最大の観光資源になっている。
1985年、西条高校近くのうちぬきが、名水百選に選ばれた。
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これを契機に、西条では観音水から陣屋跡までの1500メートル程を「アクアトピア」として整備し、町の中をうちぬきの水が流れるようにし、西条独特の景観を創った。
西条では、西条を水の都として宣伝している。
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アクアトピア水系の水は、写真の湧水井戸から湧き出ている。
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流水ゾーンでは、蛍が棲息できるように、整備されている。
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2:小松
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■2017年11月5日(日)

【歴史】

旧小松町は、江戸時代、伊予小松藩の城下町だった。
伊予小松藩は、1項で前述した通り、一柳直盛の三男、直頼が小松を分配され、立藩した(1万石)。
直頼は小松陣屋を築城し、城下町を整備した。
小松陣屋の跡に遺構はなく、石碑が立っているのみである。
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しかし、小松陣屋の建築物は、一柳氏の菩提寺である仏心寺に多く移築され、現存する。
山門は、小松陣屋の四脚門だった。
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桜門は、小松陣屋の裏門で、奥方や女中たちの部屋にすぐ通じていたことから、奥方や女中たちの通用門だった。
門の形式としては、薬医門である。
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御霊屋門は、陣屋から藩主の墓地へ向かう参道に通じていた。
御霊屋門には、一柳氏の家紋が嵌め込まれている。
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なお、仏心寺には供待が現存する。
供待は大名の菩提寺にあったもので、大名が参拝・法事を務める間、供の者たちが詰める待合所である。
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直頼の墓は、遠見山にある。
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直頼の子孫は、改易されることなく、幕末まで伊予小松藩を治めた。
藩主の墓は、前述の初代の直頼と、7代藩主を除き、円覚山の集合墓地にある。
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7代藩主、頼親は、近藤篤山(詳細は偉人①を参照)を招き、小松を文教の地にした。
墓は、臼谷にある。
なお、伊予小松藩一柳氏の墓は大名にしては簡素で、台は1つで、戒名に大居士を使用していない。
これは、藩祖である直頼が末弟だったため、全てにおいて遠慮した結果と言われている。
また、墓石の前面に石畳、背面に円柱や方形の物を設けているのが大きな特徴である。
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【偉人】

①近藤篤山
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近藤篤山は現在の四国中央市に生まれた。
篤山は家族の支えで、貧しいながらも大阪の尾藤二洲に学び、学者として名をあげた。
その後、篤山は川之江で塾を開いていたが、伊予小松藩主、一柳頼親の要請を受けたこと、別子銅山の山役人を務めていた両親が小松に移住したことから、伊予小松藩に仕えることを決断した。
篤山は、藩校「養正館」の儒館となった。
養正館の跡には、石碑が立っている。
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篤山は身分や男女を問わず学生として受け入れ、広く領民に日常の心構えを説き、自らも実践した。
その結果、篤山は伊予国だけでなく全国にも名声が知られるようになり、伊予聖人と称された。
墓は、小松高校の近くにある。
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篤山は両親を案じ、両親の近くにいたく、小松藩への仕官を決断するほど、両親思いだった。
本善寺には、篤山の両親の墓がある。
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篤山の教えの1つに、「四如の喩」がある。
これは、当時、教育を受ける機会に乏しかった女性にも分かりやすいように、4つの喩えを用いて教えたもので、日常の大切な行いについて説いている。
篤山の教えは、篤山の死後も小松に行き続け、彼の遺志を継いで、丹美園は愛媛県で初めて婦女子のための寺子屋を開いた。
なお、教育理念には、篤山の四如の喩が使用された。
寺子屋の後身となる実用女学校の跡地には、「女子教育発祥の地」碑が立っている。
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【史跡】

①近藤篤山旧邸

篤山の屋敷(武家屋敷)が現存し、一般に公開されている。
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屋敷には茶室の他、儒教式の位牌が安直された部屋があった。
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屋敷の書斎では、篤山が読み書きを行った他、学生の指導も行っていた。
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屋敷の天井は隠し部屋になっており、篤山の蔵書が納められていた。
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38205-1 愛媛県新居浜市

愛媛県新居浜市

1:別子山
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■2017年11月4日(土)

【歴史】

新居浜市の南の山間部に位置する別子山は、旧別子とも呼ばれ、江戸時代から大正時代の初めにかけて、別子銅山で栄えた鉱山町だった。
1690年に別子山で露頭が発見され、別子銅山の歴史が始まった。
別子銅山最初の坑道は、露頭が有望な鉱床だと分かり歓喜に湧いたことから、歓喜坑と呼ばれている。
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翌年、江戸幕府に願い出て、別子銅山の永代請負を任されたのが、住友家である。
住友家の祖先は涅槃宗の僧侶だったが、涅槃宗が邪教と見なされて弾圧され、涅槃宗が天台宗の一派に組み込まれることを固辞し、商人に転身した。
この住友家が、現在の住友グループの先祖であり、永代請負を任されたことが、閉山まで住友家が別子銅山を運営する基となった。
なお、歓喜坑口に祀られているのは大山積神である。
大山積神は別子銅山鎮護の神として崇拝され、その他の坑口にも祀られていた。
大山積神を祀る大山積神社は、移転を経て、現在は新居浜の山根地区にある。
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別子銅山の労働環境は、ご多分に漏れず、劣悪だった。
また、採掘した銅や、生活資材の運搬は、仲持と呼ばれる人が行った。
仲持は標高1000メートル以上の山を越え、別子山と港を幾度となく往復した。
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このような環境下において、事故などで死亡する人は少なくなかった。
彼等は圓通寺に葬られ、現在も跡地に一部の墓が残っている。
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明治維新の頃、住友家は別子銅山を手放す危機に直面していた。
新政府軍が別子銅山を接収しようとしたのである。
しかし、当時、別子銅山の支配人だった広瀬宰平は、新政府軍を説き伏せ、住友家の別子銅山の経営権を守った。
また、住友家の重役は、宰平が守った経営権を売却しようとした。
江戸時代後期の別子銅山は湧水の増加などで銅の産出量が低下し、別子銅山について経営難に陥っていたためである。
しかし、宰平は重役と交渉し、売却を阻止した。
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広瀬はその後、住友家のトップになると、別子鉱山の近代化を強く推進した。
近代技術の導入で湧水を効率的に排水し、採掘のスピードを大幅に向上し、銅の産出量を飛躍的に増加させた。
また、物資の運搬を効率良く行うため、宰平は第一通洞を開削し、運搬のために標高1000メートル以上の山を越えなくても良いようにした。
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広瀬は、さらに別子鉱山鉄道を開通し、物資の運搬の能力を更に向上させた。
新居浜の端出場に、別子鉱山鉄道の遺構が残っている。
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以上の広瀬の施策により、別子山は鉱山都市として繁栄し、別子山の人口は1万人を越えた。
これは、松山に次ぎ、当時の県内で第2位であった。
旧別子には、当時の集落の遺構が数多く残る。(詳細は史跡①を参照)

しかし、近代化の代償として、燃料となる木材の過剰な伐採により、ご多分に漏れず、別子山は禿げ山になっていった。
禿げ山になったことで、1899年、別子山は山津浪に襲われ、511人が死亡した。
その後、別子銅山の中心が新居浜(新居浜の中でも、より低地)に移転すると、別子山は徐々に衰退した。
2003年に新居浜市に吸収・合併されるときの別子山の人口は、わずか300人余りだった。

なお、別子銅山は19世紀末に煙害を引き起こし、農民の暴動を受けた。
この暴動がきっかけで、新居浜の山根に設置した山根製錬所は廃止となった(煙突のみ現存する)。
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しかし、広瀬の後を継いで住友家のトップになった伊庭貞剛、その次に住友家のトップになった鈴木馬左也は、煙害が住友グループが引き起こしたことを認めた。
1939年に煙害の元となる物質を中和させる工場を設立し、煙害は完全に解決させた。
さらに、禿げ山を緑の山として甦らせるために、2人は植林による造林事業を計画し、多いときには年に350万本の木を植林した。
この事業が実を結び、現在の別子山、およびその周辺の山々には緑が完全に甦っている。

【史跡】

①旧別子
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旧別子山では、別子山の中では新しくできた小足谷集落の遺構を中心に現存している。
施設や民家を造営するために築かれた石垣が特徴である。
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接待館は、要人や貴賓の宿泊施設だった。
赤レンガの塀が現存する。
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別子山には酒屋があり、煙突が現存する。
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別子山には、娯楽施設として、廻り舞台のある劇場があった。
なお、劇場は土木課、山林課の事務局を兼ねていた。
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別子山には小学校もあった。
跡地の木々は、植林で植えられ、育ったものである。
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現存する中で最も高い石垣は、高橋製錬所の跡地である。
石垣は300メートル以上続いている。
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2:新居浜
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■2017年11月3日(祝)~11月4日(日)

【歴史】

江戸時代の新居浜は、別子銅山で採掘した粗銅を大阪などへ輸送するための港町だった。
1702年、住友家は陸上における銅の路程を短縮するため、港を四国中央市土居町から新居浜に移し、口屋を設置した。
口屋は、銅の搬出、別子銅山労働従事者およびその家族向けの資材の搬入、仲持や牛馬の発着事務を担った。
口屋の跡は、公民館が立っている。
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明治時代の1890年、住友家は港を惣開(新居浜の数キロメートル西)に移した。
1890年は、別子銅山開坑200年の節目の年であったことから、広瀬宰平が「總開の記」碑を立てた。
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港が惣開に移転した後も、新居浜には学校、役場、図書館などの公共施設があったため、町の賑わいを維持できた。
写真は、かつての本町通りである。
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大正時代の末期には、惣開の南に位置する星越(小山を挟んで、住友病院の反対側)に、選鉱場が設置された。
この選鉱場では、当時以前には捨てていた低品位の鉱石からも銅を製錬できるように、機械を導入していた。
跡地では植樹が始まり、自然に還す動きが始まっている。
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星越には、都市計画に沿って、幹部社員の社宅(山田社宅)が100戸以上設置され、当時は高級住宅街だった。
現在も30戸ほどが現存するが、ほとんどが空き家になっている。
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山田社宅は、低い石垣の上に建てられている。
社宅があった跡は、畑になっている。
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社宅は平屋だが、破風付きの玄関を備えているものもある。
また、玄関には「鉱XXX」の番号が付けられている。
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(XXXが3桁のものが破風付きか)
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星越に社宅ができたことで、近くには別子鉄道の駅(星越駅)が設置された。
駅舎と、鉄道のトンネルが現存する。
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また、星越社宅の外れには、西洋式の2階建ての社宅が数軒現存する。
これは、外国人技術者専用のものだった。
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昭和時代の初期に別子銅山の最高責任者となった鷲尾勘解治は、新居浜が鉱山町から工業都市にシフトすることに力を注いだ。
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鷲尾は、昭和初期に、銅山の鉱脈が近い将来尽きることを調査結果より知った。
鷲尾は、銅山がなくなっても新居浜の地域社会が荒廃しないよう、以下の施策を提言した。

・新居浜の港造りと、海岸の埋め立て
・埋め立て地に、銅山に代わる諸事業(化学・機械等)を興す
・都市計画を樹立し、幹線道路を整備する

鷲尾のこれらの提言は全て実行され、新居浜は工業都市として、現在まで繁栄し続けてきた。
總開は、現在、住友グループの工場が密集している(写真は、新居浜築港)。
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鷲尾は、青年鉱夫を育成するため、私塾「自彊舎」を設立した。
自彊舎は、最初は旧別子にあったが、山根に移転した。
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その後、自彊舎は最終的に新居浜に移転した。
跡地は、広場になっている。
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鷲尾は、企業が地域社会や労働者と共に繁栄しなければ、企業の繁栄も永続もありえないという、「共存共栄」という理念を示した。
この理念を永久に語り伝えるため、新居浜に昭和初期に架けられた橋は「共存橋(上写真)」、「共栄橋(下写真)」と名付けられた。
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共存橋、共栄橋の初代の橋柱は、自彊舎跡に保存されている。
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また、鷲尾は作務(現在でいうボランティア活動)による社会貢献活動を奨励し、自らもこれを指揮した。
作務により造られたものに、山根競技場の観覧席がある。
収容人数は6万人と言われている。
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都市として発展した新居浜の平野部と対照的に、住友家と新居浜の発展を長年支えた別子銅山は、徐々に鉱脈が枯渇し、銅山の中心が標高の低い場所になっていった。
別子銅山の中心は、大正時代には旧別子から東平(詳細は史跡②を参照)、昭和時代には端出場(詳細は史跡③を参照)に移転した。
これは、採掘技術が進歩し、設備が大型化したためである。
戦後になると、海面より高い部分は枯渇により採掘できなくなってきたため、採掘は海面下深部へシフトし、地下1000メートルまで採掘を進めた。
ところが、地圧の増加、地熱の上昇により、これ以上は採掘できない状態になり、1973年、別子銅山は閉山となった。
現在、別子銅山の採鉱本部が最後に設置された端出場が観光地化され、マイントピア別子となっている。
マイントピア別子では、別子銅山の歴史を伝えている。
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【史跡】

②東平
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東平(とうなる)は、銅山越を挟んで旧別子の反対側にあった地域(標高:約750メートル)である。
第三通洞の開通に伴い、誕生・整備された地域で、東平には1916年から1930年の15年間、別子銅山の採鉱本部が設置されたため、一時期は別子銅山の中心として栄えた。
東平には最盛期で3800人の人口があったが、1968年に東平の坑道が閉坑したことにより、無人の集落となった。
建築物のうち、木材は山火事を恐れて、全て撤去されたが、索道基地、貯鉱庫、選鉱場の石垣や煉瓦は現存する。
貯鉱庫と選鉱場では、坑道から運ばれた鉱石を選別、貯蓄し、索道を利用して港へ搬出された。
索道基地、貯鉱庫、選鉱場の遺構は、「東洋のマチュピチュ」と呼ばれ、現在の新居浜で一番人気の観光スポットとなっている。
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東平の社宅の一部が復元されている。
社宅は長屋で、トイレ、洗い場などは共同で使用していた。
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索道基地と採鉱本部は急斜面で隔てられていたため、索道から運ばれた荷物は、インクラインと呼ばれる、ケーブルカーのようなもので、採鉱本部に運ばれた。
現在、インクライン跡は220段の階段になっている。
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③端出場
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端出場(はでば)は東平から瀬戸内海側へ標高600メートル下った場所(標高150メートル)にある地域である。
端出場は別子鉱山鉄道下部線の始発駅として発展し、1930年に採鉱本部が東平から移転された後は、前述の通り、閉山まで別子銅山の中心だった。
端出場には、第四通洞と、第四通洞へ通じる四通橋がある。
第四通洞は、1915年に貫通し、別子銅山の鉱石、資材、作業従事者の移動を容易にした、別子銅山の大動脈だった。
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また、端出場には、急斜面を生かし、水力発電所(旧端出場水力発電所)が設置された。
この水力発電所で生成した電気は四阪島へも送られ、別子銅山の電力を賄っていた。
水力発電所の建物が現存し、国の登録有形文化財に指定されている。
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④旧広瀬邸
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新居浜の上原地区には、1項で述べた広瀬宰平の邸宅が現存する。
外観としては、伝統的な和風の建築様式である。
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しかし、内部には、様式トイレや暖炉など、近代化を推し進めた広瀬の進取の気性を感じられる、西洋文化のものが、一部取り入れられている。
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また、庭園も基本的には日本庭園だが、欧米の庭園に見られる芝生が取り入れられている。
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新潟県まとめ

新潟県まとめ

【歴史概要(江戸時代以降)】

・江戸時代の新潟県には、天領や様々な藩が入り乱れていた。
天領では、鉱物資源が豊富な佐渡、佐渡へ通じる港町である出雲崎、米所の水原などがある。
新潟県の藩には、譜代では長岡藩、高田藩など、外様では新発田藩、村上藩などがあった。
・幕末の新潟県は戊辰戦争の戦場となった。
新発田藩など新政府軍に味方した藩もあれば、長岡藩など旧幕府軍に味方した藩もあった。
新潟県には、各地に戊辰戦争関連の史跡がある。
・新潟は昔、石油、天然ガスで栄えた地域があり、産出量が全国有数であった。
黒川(胎内市)、新津(新潟市秋葉区)、出雲崎町などに関連史跡がある。

【主な市町村の歴史の概要】

①上越

《糸魚川市》
・糸魚川
糸魚川藩の城下町+北国街道の宿場町。
神話時代から歴史があり、奴奈川姫の伝説がある。
名産はヒスイ。

《上越市》
・高田
高田藩の城下町+北国街道の宿場町。
高田騒動、戊辰戦争関連の史跡がある。
明治時代には第13師団の軍都となり、オーストリア・ハンガリー帝国からレルヒを招いて雪中での進軍を訓練したことから、日本におけるスキー発祥地となった。
また、雁木の残る宿場町には、かつて瞽女が多くおり、瞽女に魅せられた画家の齋藤真一が足しげく通った。
・直江津
北前船の湊町。
戦時中には直江津捕虜収容所が設置され、過酷な労働、環境で多くのオーストリア兵が死亡し、戦後、収容所のスタッフ8人が死刑となった。
戦争の悲惨さを語り継ぐべく、跡地には公園と展示館がある。

②中越

《柏崎市》
・柏崎
桑名藩の飛び地。
大地震の傷痕を今に伝える施設がある。
・椎谷
椎谷藩城下町。
北前船でも栄えた。
日本三大馬市を有していたことで、寺社には馬の絵馬が多数奉納されている。

《出雲崎町》
・出雲崎
北前船と、佐渡からの金銀の中継地として繁栄した港町。
偉人に、良寛がいる。

《長岡市》
・長岡
長岡藩城下町。
戊辰戦争、大空襲により2度も焼け野原となるが、その度に不屈の精神で復興を果たした「不死鳥の地方都市」。
また、関連して米百俵の精神も有名。
偉人には河井継之助、山本五十六がいる。
・与板
与板藩城下町。
・宮内
摂田屋は古くからの醸造の町で、機那サフラン酒本舗など、一部の豪華な古民家が現存する。

《小千谷市》
・小千谷
天領(幕末は会津藩預かり)で、代官所が設置されていた。
長岡藩の運命を変えた小千谷談判が行われた地で、越後における戊辰戦争が始まった地である。

《南魚沼市》
・塩沢
三国街道宿場町。
近年、町並みが整備された。
偉人には、江戸時代に雪国を全国に知らせた鈴木牧之がいる。

③下越

《弥彦村》
弥彦神社(越後国一宮)の門前町。

《新潟市》
・新潟
北前船の湊町+信濃川湊町。
幕末に開港した港の1つ。
花街等、江戸時代の湊町の文化を感じられる史跡が数多くある。
また、関屋は戊辰戦争の戦場となり、新潟港には戦時中における宇品丸の秘話がある。
・小須戸
信濃川の湊町。
繊維産業が発達し、小須戸縞が有名。
大火に負けず、昔の商家の家並みが残る。
・新津
石油で栄えた町。
石油に関する史跡が数多く残る。
・巻
三根山藩城下町。
長岡藩の分家で、長岡の米百俵の送り元。

《五泉市》
・村松
村松藩城下町。
迷路のような町割りが残る。
奥羽越列藩同盟に加入し、落城したが、その前には尊皇攘夷を唱えた藩士が弾圧された。
明治時代から戦時中は軍都でもあった。

《阿賀町》
・津川
会津街道宿場町+阿賀野川湊町。
会津藩の西の玄関口。
雁木の発祥地。

《阿賀野市》
・水原
天領で、代官所が設置された。
1年間だけ、県庁所在地だった。

《新発田市》
・新発田
新発田藩城下町。
藩主の溝口氏は安定した藩の経営で、一度も改易なく、新発田藩を終始治めた。
偉人に、赤穂浪士、堀部安兵衛がいる。

《胎内市》
・中条
米沢街道宿場町。
日本三大御前、板額御前の出身地。
・黒川
古代より原油が湧出。
現在でも、地表に原油や天然ガスが湧出している。

《村上市》
・村上
村上藩城下町。
世界で初めて鮭の養殖に成功した。
名産の鮭に大きな敬意を抱いている。
また、戊辰戦争における鳥居三十郎の秘話もある。

《関川村》
・関谷
米沢街道宿場町。
江戸時代の豪邸が数軒現存し、立ち並んでいる。
学校における六三三制の発祥地。

④佐渡

《佐渡市》
・相川
江戸時代から昭和にかけて金銀を産出した鉱山町。
当時の繁栄の面影を残す史跡や町並み、施設が点在する。
・小木
宿根木集落は、廻船の修理などで栄え、町並みが重伝建に指定されている。

15212-9 新潟県村上市

新潟県村上市

1:村上
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■2014年7月26日(土)
■2017年10月29日(日)

【歴史】

中世の村上は本庄氏が治めていた。
本庄氏は、最終的には上杉景勝の重臣となり、景勝の会津移封に付き従い、村上を後にした。

江戸時代、村上は村上藩の城下町になった。
村上藩には、村上氏を経て、堀直寄が移封された。
直寄は移封元の長岡と同様に、村上でも城下町を整備した。
また、直寄は戦国時代からある平山城の村上城を、近世城郭に改築した。
村上城の本丸(臥牛山の山頂)にある高い石垣が現存する。
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本丸には天守閣があったが、17世紀に落雷により焼失し、以降は再建されなかった。
写真奥に天守台が現存する。
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晴れていれば、本丸から村上の町の全景、三面川、日本海が見渡せる。
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堀氏が嗣子なく無嗣断絶した後、村上藩は東北の有力大名の抑えとして重要だったため、村上藩主には親藩・譜代大名が就任した。
1649年から1720年までの間、村上藩主は目まぐるしく変遷した。
その期間では最後の藩主だった間部詮房は、
徳川家宣・家継に重用されて大出世したが、徳川吉宗が将軍になって左遷させられ、村上藩主として生涯を終えた。
詮房の墓は浄念寺にある。
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1720年、駿河田中藩から内藤弌信が村上藩に移封された。
弌信の先祖は、徳川家康の異母弟である内藤信成である。
そのため、祭神の1人が信成となっている藤基神社は、権現造になっている。
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内藤氏は幕末まで村上藩を治めた。
内藤氏の墓は光徳寺にある。
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また、光徳寺には内藤氏の家族(妻子)の墓もある。
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村上には、8軒の武家屋敷が現存する。
中・上級武士で、部隊長に相当する役職だった若林家住宅は、曲家で、広大な庭を有する。
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戊辰戦争において、村上藩は新政府軍を指示する恭順派と、旧幕府軍を指示する抗戦派に分かれ、藩としての態度を統一できないでいた。
そのような状況において、老中を経験している先代の藩主、内藤信思(恭順派)は戊辰戦争の開戦により、江戸から村上に帰れなかった。
また、村上に帰った藩主、信民は藩主の責任に耐えきれず、ノイローゼにかかり、自殺した。
藩主不在で藩論が統一しないまま、新政府軍が村上藩へ進軍した。
そこで、最年少の家老、鳥居三十郎(抗戦派)は、村上城を焼き払い恭順の意向を示し、自らは抗戦派の藩士だけを率いて新政府軍と戦った。
鳥居が新潟県と山形県との間で戦ったため、村上に進軍していた旧幕府軍が村上に到達できず、村上は戦火を免れた。
戦後、鳥居は新政府軍に反逆した責任を全て背負い、切腹した。
鳥居の墓は宝光寺にある。
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抗戦派で、戊辰戦争で戦死した藩士の追悼碑が、前述の藤基神社の境内に立っている。
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他には、同神社の境内に、鳥居の追悼碑が立っている。
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村上は戦時中に空襲に巻き込まれなかったが、全国的な少子高齢化の波に抗えず、少しずつ寂れていた。
しかし、21世紀に入り、地元出身の吉川真嗣氏が、村上に残る町屋と、町屋に眠っている雛人形や屏風を生かし、町屋を公開し、雛人形や屏風を展示するよう、村上の人々に呼び掛けた。
すると、村上に人が次々に訪れるようになり、少しずつ町に活気が出てくるようになった。
この活動は、黒塀プロジェクトに派生した。
黒塀1枚千円で寄附を募り、村上の老若男女がブロック塀の上に黒塀を少しずつ拡げていった。
現在、このプロジェクトによりできた黒塀はのべ400メートルを越え、寺町に趣ある景観を取り戻している。
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最近では、近代的なアーケードを除去し、町屋の趣ある町並みを復活させる計画が始まっているそうである。
計画は新潟県から支援を得ており、観光の町として活気を取り戻す挑戦が、村上では続いている。
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【偉人】

①青砥武平次
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青砥武平次は、18世紀に大活躍した村上藩士である。
村上では、三面川を遡上する鮭が、古代から名産だった。
江戸時代でも、村上藩では鮭が名産で、村上藩は鮭を獲る権利を税として徴収(運上金)していた。
そして、運上金は村上藩の大きな財源だった。
しかし、18世紀になると、鮭は乱獲により大幅に減少し、運上金がない年もあった。
そこで、武平治は三面川を分流し、川の水をせき止め、鮭が産卵し、稚魚が成長するのに適した環境を人工的に造った(種川の制)。
これは、世界で初めての鮭の人工養殖であった。
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ところが、種川の制に対し、三面川の上流にいる天領の漁師が反発し(鮭が上流まで来なくなる)、妨害しただけでなく、幕府に村上藩の行いを訴えた。
それでも、武平治は地元の漁師たちと共に幕府に種川の制の必要性を説き、分流した川の1本を上流のために開けることを条件に勝訴を勝ち取った。
武平治は、種川の制が完全に完成する前に亡くなったが、種川の制により三面川で鮭が多く獲れるようになり、19世紀の運上金は18世紀の数倍以上に増え、村上藩の財政は潤った。
前述の藤基神社には、武平治を顕彰する種川碑が立っている。
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武平治の墓は、前述の宝光寺にある。
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【名産】

①鮭
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偉人①の青砥武平治の項で前述した通り、鮭は村上の歴史・文化を語る上でも不可欠な名産品である。
武平治が逝去した後、明治時代に三面川が国有化された後も、村上の人々は鮭の漁業権を勝ち取り、鮭の漁業は、士族の身分を失った村上藩士の仕事となった。
また、明治時代には、村上の人々は世界で初めて鮭の人工孵化に成功した。
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これにより、鮭の漁獲量が更に伸び、村上に巨万の富がもたらされた。
村上ではその富で教育に力を注ぎ、奨学金制度を充実させたり、学校の授業料を安価に押さえた。
このような歴史があることから、村上の人々は鮭に深い敬意を抱いている。
そのため、村上では鮭をどの部位も無駄にすることなく食する(頭やはらわたも食べる)。
このようにして編み出された豊富な鮭料理は、井筒屋で食べることができる。
なお、井筒屋は奥の細道で松尾芭蕉が宿泊した(旅籠だった)ことでも知られている。
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村上特有の鮭料理に塩引鮭がある。
内臓を取り除いた雄鮭を塩漬け、塩抜きし、寒風下で干す。
この干し方に村上の人々の鮭への敬意が表れている。
首吊りにならないように逆さ吊りにし、内臓を取り除く際は切腹にならないように、腹を残して2ヶ所に分けて裂く。
なお、村上の学校では、必ず塩引鮭の作り方を講習会にて実施し、後世に伝えている。
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②村上茶
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村上は北限の茶所で、村上茶も村上の名産品である(写真は、村上茶を取り扱う有名店の1つ、九重園)。
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堀直寄が京都から宇治茶を取り寄せ、産業として奨励したのが村上茶のはじまりである。
村上には、茶畑が点在し、村上茶を産出している。
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15206-4 新潟県新発田市

新潟県新発田市

1:新発田
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■2014年7月27日(日)
■2017年10月28日(土)

【歴史】

室町時代から戦国時代の新発田は、新発田氏が治めていた。
特に、新発田重家は上杉謙信に仕え、勇名を馳せた。
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重家は、御館の乱(謙信亡き後の跡継ぎ争い)にて景勝に味方し、景勝の上杉家相続に貢献した。
しかし、恩賞が少ないことで不満を抱いた重家は、景勝と不仲になり、謀反を起こした。
重家は景勝に返り討ちに遭い、新発田氏は滅亡した。
福勝寺に重家の墓がある。
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江戸時代になると、新発田は新発田藩の城下町となった。
1598年、加賀大聖寺から、溝口秀勝が新発田に移封された。
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溝口氏は尾張国溝口村の地侍だったが、丹羽氏や堀氏に仕え、頭角を表した。
新発田への移封も、主君である堀氏の移封に伴うものであった。
秀勝の父、勝政の墓が託明寺にある。
秀勝の移封と共に各地を転々とした墓で、珍しい火焔平宝珠型である。
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秀勝は新発田城(詳細は史跡①を参照)の築城に着手し、新発田の基礎を築いた。
秀勝の墓は宝光寺にある。
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また、秀勝は建御名方命と共に、新発田近郷の総鎮守である諏訪神社に祀られている。
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溝口氏は、善政により安定した藩政を行い続けた。
溝口氏は、治水工事、新田開発、指導書の配布による技術指導により、米の増産に尽力し、実質的な石高を20万石ほどに増加させた(藩の石高は、幕末まで5万石)。
一方で、年貢は他国より安く設定し、不作時には減免があったが、豊作時に年貢を追加することはしなかった。
このような藩の運営により、溝口氏は1度も改易なく、幕末まで新発田藩を治めた。
溝口氏の墓は、秀勝と共に、宝光寺にある。
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溝口氏関連の史跡として、清水園(詳細は史跡②を参照)が現存する他、天保年間に建築された足軽長屋が現存する。
1つの長屋が8軒に分割されており、8世帯の足軽が詰めていた。
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新発田藩は、戊辰戦争においても、大禍なく難局を乗り越えた。
この原動力となったのは、家老の窪田武文である。
窪田は京都に赴任し、情報収集や、朝廷、薩摩藩、長州藩との交渉を担い、逐一、藩に情報を共有した。
その結果、新発田藩は奥羽越列藩同盟に加入せず、始めから新政府軍に味方し、新政府軍の進軍に大いに貢献した。
窪田の墓は、法華寺にある。
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戊辰戦争では、80人余りの新発田藩士が戦死した。
追悼の碑は、前述の宝光寺にある。
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明治時代になると、新発田は軍都になった。
1871年には、新発田に東京鎮台新潟営所の分屯営が設置され、新発田城の大部分が軍の敷地になった。
その後、新発田には歩兵第16連隊が設置された。
1874年に建築の陸軍兵舎が移築復元され、白壁兵舎広報史料館として公開されている。
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歩兵第16連隊により、新発田には多くの人や物が集まり、遊女も多かった。
前述の福勝寺には、遊女の名前が刻まれた墓碑がある。
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戦時中には、新発田の店舗や離れが将校の宿舎として利用された。
その1つである平久呉服店に、当時の写真が展示されている。
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戦後、第16連隊の施設は自衛隊に引き継がれ、現在は陸上自衛隊新発田駐屯地になっている。
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【史跡】

①新発田城
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新発田城は大部分が自衛隊の施設になっているが、本丸の一部が現存し、百名城に選定されている。
現存する本丸表門、近隣の玄武岩を使用した石垣、堀が特に江戸時代からの面影を残している。
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他に現存する新発田城の建築物として、鉄砲櫓跡に移された、二の丸隅櫓がある。
雨雪を防ぐため、海鼠壁で仕上げられている。
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新発田城に天守閣はなく、三階櫓を天守閣の代わりとしていた。
三階櫓は復原されているが、三方に設置されている鯱は当時の通りであり、珍しい。
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②清水園
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清水園は、溝口氏が高徳寺を近郊に移して造営した下屋敷である。
庭園は、江戸幕府茶道方であった縣宗知を招いて造らせたもので、戦後に庭匠(田中泰阿弥)が修復したものの、国指定名勝となっている。
庭園は、京風の回遊式庭園となっている(写真は書院から撮影)。
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庭園には近江八景が取り入れられており、多くが現存する。
例えば、鐘無しの鐘楼は、三井寺を表している。
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受付の門(家老屋敷より移築)から一直線に伸びているのは、百間馬場であり、馬の練習場としても使用された。
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関連して、庭園の外側には矢竹が植えられている。
矢竹は節がないことから一直線に飛びやすく、矢に適している。
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【偉人】

①堀部安兵衛
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堀部安兵衛は、新発田藩出身の赤穂浪士である。
安兵衛は溝口秀勝の五女の孫に当たる。
安兵衛は新発田城近くの番所・長屋(後に大手中ノ門脇櫓が設置)で産まれた。
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安兵衛の父、中山弥次衛門は新発田藩士で、新発田城の辰巳櫓の管理責任者だった。
ところが、新発田城が失火により焼失すると、弥次衛門は責任をとり、浪人となった。
辰巳櫓は復原されている。
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安兵衛は18歳の時に江戸に出府し、新発田を後にした。
その際、安兵衛は長徳寺に印籠を預け、松を植えたと伝えられている。
安兵衛が植えたと伝えられている松は、2代目が現存する。
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新発田を跡にした安兵衛は剣の腕を磨き、剣客として名を上げ、赤穂藩士の堀部家の養子に迎えられた。
長徳寺には、赤穂浪士四十七士の木像が収められた義士堂がある。
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安兵衛の名が知れ渡るようになったことで、法華寺にある安兵衛の母の墓が近年整備された。
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09206-1 栃木県日光市

栃木県日光市

1:日光
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■2017年10月21日(土)

【歴史】

日光は、奈良時代、僧侶である勝動によって開山された。
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勝動は、日光を開山し、四本龍寺を創建した。
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勝動はその後、15年かけて二荒山の登頂に成功し、山頂に祠を祀った(二荒山神社奥宮)。
勝動は生涯をかけて、修験の道場としての日光の基礎を築いた。
勝動は日光に、日光二荒山神社を建立した。
日光二荒山神社は、下野国の一宮に指定されている。
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平安時代になると、日光山は天台宗の寺院になり、一大勢力となった。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、日光は後北条氏を支持したため、秀吉から寺領を没収され、一時衰退した。

江戸時代になると、徳川家康の信任が厚い天海が日光山を中興させた。
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天海は家康の遺言を守り、遺体を1年間久能山に埋葬した後、日光に移した。
家康は天皇から東照大権現の神号を賜ったため、家康を遺体と共に祀った神社が、日光東照宮となった。
日光東照宮の陽明門、本社には、豪華な装飾が所狭しと施され、威厳を示している。
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日光東照宮の奥宮に、家康の遺体が葬られた御宝塔がある。
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日光の大猷院には、家康の孫、家光の墓がある。
墓は非公開だが、墓への出入口に当たる門(皇嘉門)は、城門を思わせる。
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権現造の大猷院の拝殿・本殿は、日光東照宮ほどではないが、豪華な装飾が施されている。
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また、境内には各地の大名から寄進された灯籠が数多く立ち並ぶなどし、絶大な力を示している。
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江戸時代の初期までは、殉死が禁止されておらず、主君に従って殉死する者がいた。
釈迦堂の西側には、家光の逝去に従い、殉死した側近の墓がある(写真の右2基を除く)。
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なお、日光山には輪王寺の号が与えられた。
輪王寺で最大規模の建物である三仏堂は、現在、大修理中である。
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日光に日光東照宮ができたことにより、日光には一般人も参拝するようになった。
家光の子孫である徳川将軍家も日光東照宮を度々参拝した。
徳川将軍家の宿泊施設とされた御殿の跡地には、輪王寺の本坊が立っている。
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日光東照宮の手前を流れる大谷川を渡るために架けられている神橋は、徳川将軍家と山伏のみ通行が許された、神聖な橋である。
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日光東照宮がある日光には、幕府の奉行所(日光奉行所)が設立された。
跡地には石碑以外、残されていない。
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幕末から明治時代の初めにかけて、日光の寺社には、危機が2度訪れていたが、いずれも回避した。
1度目の危機は、戊辰戦争である。
戊辰戦争において、大鳥圭介率いる旧幕府軍が日光に立て籠った。
しかし、新政府軍の板垣退助が、大鳥を説得し、日光が戦火に遭うことを防いだ。
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2度目の危機は、廃仏毀釈である。
日光は日光東照宮、日光二荒山神社、日光輪王寺の二社一寺が世界遺産に登録されているが、廃仏毀釈により、前述の輪王寺の三仏堂が取り壊されそうになっていた。
そこで、日光の町民を代表し、落合源七と巴快寛が、決死の覚悟で東北巡幸中の明治天皇に直訴した。
その結果、明治天皇から三仏堂の移転・復元と景観の保護を命じられ、日光が現在まで守られてきている。
2人の顕彰碑は、日光総合開館にある。
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明治時代になると、外国人が奥日光を避暑地として開発したこともあり、日光にも外国人が訪れてるようになった。
1870年、外国人で初めて日光を訪れたヘボンは、日光の雅楽師であった金谷善一郎の家に宿泊し、外国人向けの宿泊施設を日光に造ることを提案した。
金谷はその提案に応じ、民宿「金谷カテッジイン」を開業し、後に宿泊したイザベラ・バードに著書で絶賛された。
武家屋敷を改築し、イザベラ・バードが宿泊した部屋が保存されている金谷武家屋敷は現存し、一般公開されている。
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また、天皇家も、大正天皇(当時、皇太子)の静養を目的に、日光に日光田母沢御用邸を造営した。
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大正天皇は御用邸で公式儀礼を行うことがあったため、御用邸には謁見所(上・中写真)、日常的な公務を執り行う御座所(下写真)がある。
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戦時中、御用邸は皇太子(今上天皇)の疎開先であった。
皇后御座所が、皇太子の疎開生活の中心だったそうである。
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2:今市

■2017年10月22日(日)

【歴史】

旧今市市は、江戸時代、日光街道の宿場町(今市宿)だった。
今市宿は、日光街道と日光例幣使街道との追分があり、交通の要衝であった。
追分には、追分地蔵尊が現存する。
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江戸時代には、日光街道を通り、徳川将軍家が日光を参拝した。
如来寺の境内には、家光、家綱が宿泊する御成御殿が造営された。
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また、江戸時代には、朝鮮通信使が3回、日光を訪れた。
その際、朝鮮通信使は今市の客館に宿泊した。
跡地は、杉並木公園の東端にある。
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日光街道には、松平正綱が寄進した5万本の杉が植えられていた。
現在も約1.4万本の杉が残り、長距離に渡り杉並木が現存する
国内で唯一、国の特別史跡と特別天然記念物に指定され、世界一長い並木道としてギネスブックに掲載された。
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今市宿の面影を残すものは残っていないが、本陣跡は道の駅(ニコニコ本陣)になっている。
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幕末に差し掛かる頃、幕府の命令で二宮尊徳が日光神領に赴任し、農村復興に向けて仕法を開始した。
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尊徳は家族や弟子と共に、今市の報徳役所に住み込みで働いていた。
跡地には、二宮尊徳記念館などの複合施設が建っている。
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役所の建物のうち、書庫が現存する。
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尊徳は灌漑用水の開削の重要性を説き、今市にも灌漑用水を開削した。
開削した用水は二宮堀となり、今市高校に現存する。
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日光神領に赴任して3年後、尊徳は役所で病死した。
尊徳は報徳二宮神社に祀られている。
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報徳二宮神社に、尊徳の墓がある。
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戊辰戦争において、今市宿の周辺は戦場になり、前述の杉並木には、砲弾が打ち込まれた杉が現存する(未探訪)。
今市宿には土佐藩が約50日間滞陣した。
回向庵には、戦死した土佐藩士と佐賀藩士の墓がある。
なお、戊辰戦争が決定打となり、日光における尊徳仕法は打ちきりとなった。
尊徳の子、弥太郎は中村藩に招かれたが、日光における尊徳仕法は、弟子の久保田譲之助に引き継がれた。
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15205-6 新潟県柏崎市

新潟県柏崎市

1:椎谷
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■2017年10月15日(日)

【歴史】

柏崎の東部の海岸沿いに位置する椎谷は、江戸時代、椎谷藩の城下町だった。
初代藩主、堀直之は、堀直政の五男で、堀直寄の弟に当たる。
2代藩主、直景の代から、椎谷堀氏は石高が1万石を越え、大名となった。
椎谷藩は江戸定府で、上総、下総、武蔵にも飛び地を有していたが、1698年にこれらの飛び地は越後国と領地替えになった。
香取神社は、椎谷藩の飛び地が香取郡にあったことから、領地替えの際、香取神宮を分祀したものである。
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椎谷堀氏が最後に陣屋を移したのは、1715年のことである。
陣屋は、打越の小山に構えられた。
椎谷堀氏は幕末まで椎谷藩を治めた。
陣屋の跡地は整備され、県指定の史跡になっている。
藩邸跡には、陣屋の角にあった稲荷神社が移されている。
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陣屋の遺構は、保存状態が比較的良く、例えば、西側には、表門跡がある。
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初代藩主の直之は、馬好きということもあり、馬の育成と改良を奨励し、一般にも馬の売買を許可した。
そのため、椎谷は馬市が盛んになり、藩の大きな財源にもなった。
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椎谷観音堂には、馬市に関連し、馬が描かれた絵馬が多数奉納されている。
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はっきりと分かるもので、長野県の人々が明治時代に奉納した金文字の馬の絵馬が奉納されている。
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椎谷は日本海に面しており、北前船でも栄えた。
机立観音堂の跡地の近くに、船を係留した石杭が僅かに見える。
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戊辰戦争において、椎谷藩は新政府軍に味方したが、椎谷は戦地の1つになってしまった。
香取神社の石鳥居の右の柱は、新政府軍の砲弾が命中した跡と言われている。
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また、椎谷は西南戦争において、政府側に兵を派遣した。
香取神社には、武運長久を願い、出兵した人々が奉納した
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2:柏崎

■2017年10月15日(日)

【歴史】

江戸時代の柏崎は、桑名藩の飛び地で、桑名藩の陣屋があった。
陣屋は、柏崎駅の西側にあり、現在は石碑が残るのみである。
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幕末の桑名藩は、藩主や、一部の藩士が旧幕府軍に味方したため、柏崎に新政府軍が進軍してきた。
しかし、豪商の星野藤兵衛が新政府軍に働きかけたことで、柏崎の町は戦火に遭わずに済んだ。
星野藤兵衛の墓は、妙行寺にある。
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その後、妙行寺は、新政府軍の本陣が設置された。
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しかし、柏崎の周辺(鯨波)は、戊辰戦争の戦場となった。
柏崎の新政府軍の招魂所には、供養塔と44基の墓石がある。
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近くには、生田萬の墓がある。
生田は、館林藩士で、柏崎で国学を教えていた。
生田は、天保の大飢饉で、米価の高騰に苦しむ庶民を見て、米商人と役人の無策に憤り、柏崎陣屋を襲撃した。
しかし、失敗に終わり、生田は自害した。
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柏崎は、昭和には新潟地震、平成には中越沖地震で被害を受けた。
旧柏崎公会堂では、中越沖地震のビデオを上映している他、地震でできたヒビ(中写真が新潟地震、下写真が中越沖地震)を保存し、地震の恐ろしさを後世に残している。
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15342-7 新潟県弥彦村

新潟県弥彦村

■2017年10月14日(土)

【史跡】

①弥彦神社

弥彦は、弥彦神社の門前町である。
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弥彦神社は、奈良時代に建立され、越後一宮に指定されている(写真は、一の鳥居)。
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弥彦神社の祭神は、天香山命(あまのかごやまのみこと)である。
天香山命は天照大神の曾孫で、神武天皇の東遷を助け、神武天皇の命で、越後国を開拓した。
弥彦神社は、一度、1912年に大火で大半を焼失しており、本殿の場所が大火の前後で変わっている。
大火前は、宝物殿の辺りにあり、一の鳥居から一直線に本殿へ続いていた。
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現在は、弥彦山方向へ折れた先に本殿がある。
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本殿の出入口には、随神門があり、皇紀2600年に当たる、1940年に建てられた。
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天香山命の子孫は、摂末社に祀られている。
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また、摂末社と並んで建っている十柱神社の社殿は茅葺きである。
弥彦の自然の神様が祀られているそうである。
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一の鳥居から中に入ると、すぐに御手洗川が流れている。
かつては、御手洗川で体を清め、弥彦神社に参拝した。
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一の鳥居から中に入り、御手洗川の左手を見ると、神様専用の橋、玉の橋がある。
玉の橋は、大火でも焼失を免れた。
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弥彦神社は越後国の一宮であるだけに、新潟県で産出される石油の業界に携わる人々から大いに信仰されている。
本殿へ続く石の鳥居は、石油王と言われた中野家が寄進したものである。
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また、境内の石油上流釜は、柏崎に工場があった日本石油加工株式会社が寄進したものである。
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弥彦神社には、明治時代、地方を巡幸した明治天皇が立ち寄った。
弥彦神社の向かいには、明治天皇の巡幸に合わせて立てた行在所があったが、前述の大火で焼失した。
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プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で東京在住

【職業】
(平日)2011年より社会人・SE
(休日)旅人

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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