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コロナで旅を長期自粛しています

最後の投稿から半年経ち、9月になりました。
私は、現在もコロナで旅を自粛しています。
コロナがほぼ収束するまで、旅は自粛する予定です。
Go To トラベルで旅行が推奨されていますが、大事なことは、「自分は感染しない」ことではなく、「他者に感染させない」ことだと考えています。
そして、旅の原則は、現地に迷惑を掛けないことだと考えています。
しばらくは、このブログへの投稿は休止状態になりますので、よろしくお願いいたします。
それまでは、過去の記事から、各地の歴史をご覧いただけると幸いです。
なお、自粛中は仕事のAWSや、趣味の歴史能力検定の資格勉強など、時間を有意義に使っていますし、今後も暫くはそのような生活を続ける予定です。
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13109-1 東京都品川区

東京都品川区
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■2020年3月22日(日)

【歴史】

≪中世の品川~交易の拠点~≫

中世の品川には品川浦と呼ばれる港町があり、海路で運ばれた物資は品川浦を経由して武蔵野平野の各地に届けられた。
また、品川では戦後まで漁業が行われ、特に江戸時代は江戸城に鮮魚を納める役目を担う港町の1つであった。
品川浦公園の北側には船溜まりの一部が現存し、品川浦及び漁業の形跡を残している。
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港町だった中世の品川には数々の寺院が建立された。
中でも妙国寺は、15世紀中頃に五重塔が建立されるほどの勢力を誇っていた。
現在は天妙国寺になっており、五重塔の礎石が残っている。
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≪江戸時代の品川~品川宿~≫

江戸時代になると、品川宿は江戸から1番目の東海道宿場町(品川宿)に指定され、宿場町の機能が整備された。
宿場町の規模としては、1843年時点で本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒だった。
本陣の跡地は公園として整備され、1868年に明治天皇の行在所となったことから聖蹟公園と名付けられた。
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宿場町の町並みは景観が整備され、間口が狭く奥行きが長い町屋の造りを残す建物が多く残っている。
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≪江戸時代の品川~下屋敷等の武家地~≫

江戸時代の品川区には、大名の下屋敷(大名の避難所または別荘)が点在していた。
例えば、南品川には仙台藩の下屋敷があった。
下屋敷跡地の坂は仙台坂と呼ばれていたが、戦後の都市開発により道幅が広い別の道が仙台坂になった。
そのため、かつての仙台坂は旧仙台坂(くらやみ坂)と呼ばれている。
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東大井には、土佐藩の下屋敷があった。
その関係で、東大井の下総山と呼ばれていた高台に、幕末の四賢侯の1人で土佐藩を雄藩にした山内容堂の
墓がある。
墓はその後、山内家累代の墓所になっている。
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また、品川の寺院には大名家の墓所を有するものもある。
清光院には、豊前中津藩主奥平家の墓所がある。
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≪沢庵(たくあん)と東海寺≫

沢庵は江戸時代初期の名僧で、京都の大徳寺の住職になった。
しかし、沢庵は紫衣事件により幕府の横暴に抵抗した結果、出羽国に流罪となった。
徳川秀忠の死後、流罪を許されて江戸に上京した沢庵は、徳川家光から絶大な信頼を得た。
家光は東海寺を品川に建立し、沢庵を住職にした。
東海寺は17の塔頭を有する大寺院だったが、現在はかつての塔頭の一軒に寺名が引き継がれている。
境内には1692年に造られた鐘が現存する。
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旧東海寺の墓地は大山墓地として現存し、沢庵の墓がある。
沢庵の墓は小堀遠州の築造と言われており、大きな自然石を置いたものである。
また、墓地の入口の亀趺は沢庵の顕彰碑である。
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≪大山墓地に眠る他の偉人≫

大山墓地には、他に複数の偉人の墓所がある。
賀茂真淵は本居宣長を指導した国学者で、万葉集等の古典を研究し、後世に遺した。
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井上勝は幕末の長州藩士で、幕末に長州ファイブの1人としてイギリスに留学した。
日本に帰国後は鉄道網の拡大を推進し、日本の鉄道の父と呼ばれるほどの功績をあげた。
大山墓地は山手線と東海道線に挟まれており、井上は死後も日本の鉄道を見守りたく、死後に大山墓地に葬られることを望んだと言われている。
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≪東海寺の鬼門除け、品川神社≫

東海寺が建立されると、その北東に鎮座していた北品川稲荷神社が東海寺の鬼門除け(鎮守)となった。
そのため、家光の側近で当時の佐倉藩主の堀田正盛が鳥居を寄進し(境内に現存)、火災で社殿が焼失した際は徳川将軍家が再建するなど、幕府の庇護を受けていた。
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なお、品川神社の裏には、自由民権運動を主導した板垣退助の墓がある。
板垣の墓が当初は東海寺の塔頭にあったことから、関東大震災後に現地に移された。
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≪江戸幕府の刑場、鈴ヶ森≫

江戸時代、品川宿の南の外れに鈴ヶ森刑場が設置されていた。
鈴ヶ森刑場で処刑された人の中には、後の世に演劇の題目に登場する人物も少なくなかった。
刑場跡には大経寺が建てられている。
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刑場跡では火あぶりの刑や磔の刑が執行され、各々の台石が現存する。
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1651年の由井正雪の乱で、由井正雪の右腕として活躍した丸橋忠弥も鈴ヶ森刑場にて処刑された。
丸橋の場合は磔の刑に処され、武士としては屈辱的な死に様となった。
丸橋の首塚と伝えられているものが南品川の妙蓮寺にある。
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≪幕末の品川~外国船の驚異に対して品川で見られた動き~≫

1853年にペリーが浦賀に来航すると、幕府は外国船から江戸を守るため、11の台場の建築を計画した。
この一環で、品川には御殿山下台場が築かれた。
御殿山下台場は陸続きの台場で、五角形の砲台になっていた。
現在も台場の形は現存し、跡地は台場小学校になっている。
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日米和親条約締結後に大老になった井伊直弼は、日本の鎮護、品川宿の人々の繁栄安泰を祈願し、品川宿に一心寺を建立した。
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日米修好通商条約の締結後、日本は同様の不平等条約を各国と締結した。
現在も地名が残る御殿山には、1861年にイギリスの公使館が建てられたが、同年に攘夷を目指す長州藩士に焼き討ちされた。
首謀者の長州藩士たちが集合場所として使用した旅籠「相模屋」は、奥座敷が土蔵造りになっていたことから土蔵相模と呼ばれていた。
跡地には案内板が立てられている。
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≪大森貝塚の発見(日本考古学の発祥)≫

明治時代の品川には早期に鉄道が通った。
1877年、横浜から新橋に向かっていたアメリカ人の学者モーセは、車窓から貝塚を発見し、発掘調査を実施した。
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この発掘調査が、日本における考古学の先駆けとなった。
貝塚は、モーセが大森駅から歩いて発掘調査を行ったことから大森貝塚と呼ばれ、現在は大森貝塚遺跡庭園として整備されている。
奥には、1929年に建てられた大森貝塚の碑が現存する。
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13104-1 東京都渋谷区

東京都渋谷区
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■2020年3月21日(土)

【歴史】

≪中世の渋谷と地名の由来≫

渋谷の地名は、平安時代末期に河崎基家が居館を構え、その子孫が渋谷姓を名乗ったことから付けられたと言われている。
居館跡には、基家が1092年に建立したと言われている金王八幡宮が残っている。
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居館は戦国時代まで砦(渋谷城)として使用され、金王八幡宮の境内にある大石は砦の石と言われている。
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≪江戸時代から明治前期の渋谷≫

江戸時代の渋谷は、時代が経つにつれて大名の下屋敷(別荘または避難場所)や武家屋敷が建てられるようになった。
また、渋谷には広尾などに複数の寺が建立され、中には大名の墓所を有するに至った寺もある。
東北寺は明治時代から佐土原藩島津家の菩提寺になり、佐土原藩島津家の墓所がある。
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祥雲寺は、福岡藩2代藩主の黒田忠之が先代で父の直政を弔うために建立した寺である。
そのため、境内には黒田直政の墓がある。
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祥雲寺には秋月藩黒田家や久留米藩有馬家など、多くの大名家の墓があり、大名墓地群と呼ばれている。
(秋月藩黒田家墓所)
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(久留米藩有馬家墓所)
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明治時代になると、渋谷では桑や茶の栽培が奨励されたことから、下屋敷の跡地を中心に畑が整備されるようになった。
例えば、紀州徳川家の下屋敷跡は、佐賀藩主だった鍋島家が購入し、士族授産のための茶畑となった。
鍋島家はこの茶畑を「松濤(しょうとう)園」と名付けた。
松濤園があった一帯は、昭和初期に松濤という町名になり、その中にあった湧水の池は鍋島松濤公園になっている。
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≪渋谷駅の登場と渋谷の工業化≫

1885年、渋谷に品川鉄道(現在の山手線)の線路が延伸され、渋谷駅が開業した。
鉄道の開通、水車による水力、地価の安さにより、明治時代後期の渋谷には日本麦酒醸造會社の工場(後のエビスビール)等が誘致され、渋谷の工業化が進んだ。

≪短歌革新運動の拠点、渋谷≫

1901年、与謝野晶子と結婚した与謝野鉄幹は渋谷に移住し、道玄坂の辺りに東京新詩社を設立した。
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東京新詩社では機関誌「明星」を発行し、1909年の移転まで、2人と新進気鋭の歌人たちは渋谷で短歌の改革を推進した。
このため、大正時代までの渋谷には多くの歌人がいた。
道玄坂には、明星に収められた与謝野晶子の歌碑がある。
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≪代々木練兵場の誕生と日本初の飛行の実施≫

明治末期、青山には兵士が戦闘訓練を実施するための陸軍の練兵場があった。
しかし、手狭になったため、陸軍は1909年に渋谷駅の北西にある代々木の原を買収し、代々木練兵場を設立した。
この際、代々木の原の住民は移転を余儀なくされた。
代々木の原の鎮守だった代々木八幡神社には、代々木の原を追われた住民が寄進した燈籠が現存する。
燈籠には、住民が故郷との別れを惜しむ言葉が刻まれており、訣別の碑と呼ばれている。
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代々木練兵場では、1910年に徳川好敏と日野熊蔵が外国製の飛行機を操縦し、日本で初めての飛行が行われた。
代々木練兵場の跡地には日本初飛行の地を記念した碑が建っている。
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戦前の代々木練兵場には、度々天皇が行幸し、観兵式(軍事パレード)を親閲した。
この際に天皇は松の木の傍らに立っていたと伝えられ、その松の木が現存する。
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≪明治天皇夫妻を祀る明治神宮の建立≫

1912年に明治天皇が、1914年に昭憲皇太后(明治天皇の妻)が崩御すると、国民の間に2人を祀る神社の建立の機運が高まった。
なお、昭憲皇太后の崩御において、大喪の諸儀の一環で「葬場殿の儀」が代々木練兵場で行われ、跡地には碑が建てられている。
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日本全国の青年団など、のべ11万人の男子が、日本全国から集められた材木を勤労奉仕で植林し、1920年に明治神宮を建立した。
境内の参道には、日本一の大きさを誇る鳥居(高さ12メートル)が建てられている。
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明治神宮は代々木練兵場の傍に建立された。
その場所は、江戸時代の始めに加藤清正の下屋敷跡と言われており、彦根藩主井伊家の下屋敷を経て、明治時代には皇室の御料地となった。
境内には清正が掘ったと言われている井戸(清正井)が現存し、現在も湧水が井戸から湧出している。
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明治時代、下屋敷跡の御料地には下屋敷の庭園が引き続きあったが、明治天皇が病弱だった昭憲皇太后のために改造を加えている。
庭園は明治天皇御苑として現存している。
庭園には、昭憲皇太后の休憩所として建てられた茶室風の木造家屋(隔雲亭)が再建され、清正井から湧出した水が流れる南池を臨むことができる。
南池には釣りを楽しむための釣場も用意されていた。
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ファッションブランドの集積地として若者を中心に人気の表参道は、道幅の広い直線の道が続いている。
表参道は、元々は明治神宮の参道として整備された大通りである。
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≪都市化する渋谷と関東大震災による人の流入≫

開業以来、様々な路線が通るようになった渋谷駅は、都市と近郊を結ぶターミナル駅として成長した。
大正時代になると、洋風の住まい(文化住宅)が裕福なサラリーマン層に人気となり、渋谷はこのような層の人々の流入により、都市化が進行した。

1923年の関東大震災において、渋谷は比較的被害が小さかった。
そのため、被害が甚大だった下町などから渋谷に多くの人が流入した。
道玄坂にある「しぶや百軒店(ひゃっけんだな)」は、関東大震災により被害を受けた有名店が渋谷に仮店舗を次々に建てて形成された商店街が元である。
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震災後、東京では地震や家事に強い鉄筋コンクリート造りの建物が建てられるようになった。
表参道の同潤会青山アパートは、1926年建築の鉄筋コンクリート造りのアパートを再現したもので、貸店舗になっている。
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≪戦前~終戦における渋谷の陸軍関連の出来事≫

NHKがある一帯は、戦前は陸軍刑務所だった。
1936年に勃発した二・二六事件において、事件の首謀者たち一味は陸軍刑務所にて死刑となった。
跡地の一画には、加害者・被害者を問わず二・二六事件にて死亡した人を慰霊するために慰霊像が建立された。
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終戦直後の日本では、長年における軍国主義の浸透から、一部の人が自決した。
1945年8月25日には、右翼団体の大東塾の14人が、代々木練兵場の一画で自決した。
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≪戦後の渋谷≫

終戦後、代々木練兵場は米軍に接収され、ワシントンハイツが設立された。
ワシントンハイツは、日本に駐留する米軍兵士とその家族が生活する住宅地で、都心の一画がアメリカになったような形だった。
戦時中の空襲で7割以上が焼け野原となった渋谷では、ワシントンハイツの米軍兵士に恋心を抱く日本人女性もいた。
終戦後の渋谷には、彼女の恋心を米軍兵士に伝えるため、ラブレターの代筆・翻訳を生業とする人が一ヶ所に集まっていた。
この場所は恋文横丁と呼ばれ、当時の様子は丹羽文雄の小説「恋文」で描かれている。
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1964年の東京オリンピックにおいて、渋谷にはサブ会場となった代々木国立競技場が建築され、水泳やバスケットボールの会場にもなった。
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ワシントンハイツとなった代々木練兵場跡は、1964年に返還され、一部がオリンピック選手村に使用された。
ワシントンハイツにおける住宅として建てられ、選手村の宿舎にもなった洋風住宅が現存する。
なお、1967年に代々木練兵場跡は代々木公園として開園され、多くの人々の憩いの場になっている。
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ワシントンハイツによりアメリカの文化が流入した渋谷は、1970年代にファッションの先進地となり、現在の若者が集まる町へ繋がっていった。

11240-2 埼玉県幸手市

埼玉県幸手市
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■2020年3月15日(日)

【歴史】

幸手は、江戸時代に日光街道の宿場町(幸手宿)だった地である。
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幸手宿の聖福寺は、徳川家光が日光へ社参する際に休憩所として使用して以降、徳川将軍家や日光例幣使の休憩所となった。
例えば、徳川吉宗が1728年に65年ぶりの日光社参を実現した際、聖福寺で休憩し昼食を食べた。
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聖福寺には、徳川将軍家や日光例幣使のみくぐることを許された勅使門が現存する。
表裏の両方に唐破風を備えた平唐門で、裏側には扉や蟇股に菊の御門が付いている。
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(表)
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(裏)
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幸手宿には1843年の時点で脇本陣が無く、旅籠が27軒と小規模の宿場町だった。
本陣は、長野県伊奈郡の豪族の出である知久家が務めた。
本陣には、1874年に明治時代が東北巡幸の際に宿泊した。
現在は割烹蒲焼の義語家になっている。
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知久家は問屋と名主も兼ねていた。
本陣の向かいに問屋場があり、跡地は中央商店街ポケットパークになっている。
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幸手宿には伝統的な古民家が数軒現存する。
例えば、国指定登録有形文化財に指定された岸本家住宅は、整備されてカフェになっている。
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天明の飢饉は、幸手にも被害が及ぼした。
しかし、町の有志21人は金品を出し合い、難民の救済にあたった。
これを知った関東郡代の伊奈忠尊が建てさせた顕彰碑が、正福寺にある。
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【史跡】

①権現堂堤

当時、幸手宿の北側には権現堂川が流れていた。
権現堂川には6キロメートルの堤防(権現堂堤)が築かれ、権現堂川流域の洪水を防いでいた。
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しかし、権現堂堤は度々決壊していた。
そのため、江戸幕府は水害で権現堂川を渡れなくなった際に、幸手宿から迂回する日光御廻り道を設置した。
しかし、一度も使用されることはなかった。
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権現堂堤が1802年に決壊した際は、修復作業が中々進まなかったが、通りすがりの順礼母娘が身投げしたことで洪水が収まったという伝説が伝えられている。
権現堂川は1926年に廃川となり、権現堂堤が残された。
堤には、1936年に権現堂川用水路普通水利組合が建てた順礼の碑がある。
石碑には日本画家の結城素明が描いた順礼母娘が刻まれており、その絵が評価され、市の指定文化財になっている。
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なお、堤には1933年に幸手商工会が建てた順礼供養塔がある。
こちらは、1899年に順礼樋管決壊による水防活動中の殉職者の供養を兼ねている。
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幕末になると権現堂堤の管理が甘くなり、堤が荒廃した。
明治時代になり、1873年に人々は堤の改良工事を実施した。
翌年、東北巡幸の道中で通りかかった明治天皇は、新しくなった堤を見て人々の労を感じ入り、費用の一部を下賜した。
そのため、権現堂堤は行幸(みゆき)堤と呼ばれるようになった。
その経緯が行幸堤の碑に書かれている。
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権現堂堤には桜が植えられ、桜の名所になっている。
また、周辺には様々な花が植えられており、訪れた3月中旬には菜の花が咲いていた。
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11464-2 埼玉県杉戸町

埼玉県杉戸町
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■2020年3月15日(日)

【歴史】

杉戸は、江戸時代に日光街道の宿場町(杉戸宿)だった地である。
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杉戸宿は1843年の時点で本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒の規模だった。
現在の三井住友信託銀行杉戸支店には問屋場があり、1876年に明治天皇が東北に巡幸する際の休憩所になった。
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問屋場の裏には稲荷神社があり、伊奈稲荷神社として現存する。
飾られている鰐口には、当時の杉戸宿で働いていた22人の女性の名前が刻まれている。
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杉戸宿には北側に枡形があり、突き当たりには、袖蔵を備えた小島定右衛門邸が現存する。
小島定右衛門邸は、角にある米穀問屋だったことから、屋号は「角穀」と呼ばれていた。
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杉戸宿には、他にも渡辺金物店等、伝統的な古民家が数軒現存する。
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明治時代になると、杉戸では宝性院を仮校舎として、1874年に学校(杉戸学校)が開かれた。
杉戸学校は1877年に校舎の新築により移されたが、再び宝性院に戻り、1901年まで宝性院を校舎にした。
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杉戸は1878年から北葛飾郡に属し、その翌年から1926年まで杉戸に郡役所が設置された。
郡役所は宝性院に仮本庁が設置され、1881年に現在の町役場のある場所に新庁舎が設置された。
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明治時代には杉戸でも自由民権運動が広がり、東福寺が運動拠点の1つとなり、演説も行われていた。
また、東福寺には一時期、町役場が設置されたこともあった。
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11217-8 埼玉県鴻巣市(鴻巣)

埼玉県鴻巣市

1:鴻巣(こうのす)
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■2020年3月14日(土)

【歴史】

鴻巣は、江戸時代に中山道の宿場町(鴻巣宿)だった地である。
鴻巣宿は、現在の北本市にあった宿場町が1602年に移設されて誕生した。
当時の鴻巣には、徳川家康が鷹狩りや領内視察の際に宿泊や休憩するための鴻巣御殿があった。
跡地には東照宮が建てられたが、現在は小さな石祠が残っているだけである。
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東照宮は明治時代に、鴻巣宿及びその周辺の神社と合祀され、鴻神社になった。
鴻神社にはコウノトリ伝説(人々に災いをもたらす神が宿る木にコウノトリが巣を作り、その神を追い返した)が伝えられており、鴻巣の地名の由来になったと言われている。
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鴻巣宿は、最盛期には旅籠が58軒あり、比較的大きい規模の宿場町だった。
鴻巣宿には本陣1軒と脇本陣2軒が設置された。
本陣は伊田ベビーの辺りにあった。
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法要寺は加賀藩が参勤交代する際の宿所となった寺である。
そのため、加賀藩前田家の家紋である梅鉢を寺紋として使用しており、山門の瓦などに梅鉢が見られる。
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勝願寺は、16世紀末に住職を務めていた円誉不残が徳川家康の帰依を受けたため、徳川家の家紋の使用を認められている。
境内には、鴻巣で死亡した大名や大名夫人の墓がある。
仙石秀久は当時の小諸藩主、小松姫は当時の上田藩主である真田信之の正室である。
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鴻巣は雛人形の生産が日本一で、鴻巣雛の名称で埼玉県の伝統手工芸品に指定されている。
現在でも、人形町を中心に雛人形の店が見られる。
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江戸時代前期、鴻巣では桐製品の産地で、農閑期の仕事として桐製品が生産されていた。
19世紀になると、中山道を通じて京都から着物等が運ばれたため、鴻巣では地元にある桐等の材料と組み合わせ、雛人形の生産が盛んに行われるようになった。
鴻巣市産業観光館「ひなの里」では、古今を問わず鴻巣雛が展示されている。
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また、鴻巣は桐製品が盛んだったため、桐のオガクズを材料とした赤物(赤い玩具)の生産が盛んだった。
鴻巣の赤物制作技術は、国の重要無形文化財に指定された。
ひなの里には、鴻巣の赤物も展示されている。
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11219-4 埼玉県上尾市

埼玉県上尾市
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■2020年3月14日(土)

【歴史】

上尾(あげお)は、江戸時代に中山道の宿場町(上尾宿)だった地である。
上尾宿は、全盛期で旅籠が41軒あり、中山道としてはどちらかと言えば小規模だった。
上尾宿の伝統的な民家では、正面に魔除けや日除けとして鍾馗(しょうき)を飾っており、関東では珍しい。
現在では、新井屋等で鍾馗を見ることができる。
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上尾宿では、現在の仲町一丁目に本陣、脇本陣、問屋場といった宿場町の中心機能が集中していた。
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本陣の向かいには、上尾宿の総鎮守である氷川鍬神社がある。
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境内には江戸時代に二賢堂(じけんどう)が建てられ、二賢堂の由緒について記載した記念碑が建てられている。
二賢堂は1788年に、上尾宿で旅籠を営んでいた山崎碩茂(せきも)をリーダーに設立した郷学校「聚正義塾」の学舎だった。
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山崎の墓は遍照院にある。
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44211-9 大分県宇佐市(宇佐)

大分県宇佐市

1:宇佐
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■2020年3月1日(日)

【歴史】

≪宇佐神宮と宇佐の歴史≫

宇佐には宇佐神宮(詳細は史跡①を参照)がある。
八幡神社の総本山で、奈良時代から現在に至るまで、多くの人々に崇拝されてきた。

神話によると、東征のため日向国を出発した神武天皇が最初に寄港したのが宇佐だった。
宇佐では菟狭津彦(ウサツヒコ)と菟津媛(ウサツヒメ)が神武天皇を歓待した。
宇佐神宮には、この出来事を顕彰した菟狭(ウサ)顕彰碑が建てられている。
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伝承によると、571年に八幡大神が三歳の童子の姿で宇佐に現れた。
八幡大神は「我は誉田天皇広幡八幡宮なり。我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩と申す」と告げた。
そのため、八幡大神は和名が一致する応神天皇(15代天皇)と同一視されている。
八幡大神が初めに現れた場所は諸説あるが、一説では宇佐神宮境内の菱形池と言われている。
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菱形池には、宇佐神宮の神事で使用する御霊水(湧水)があり、石台が八幡大神の現れた場所と言われている。
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なお、現れた八幡大神を祭祀したのは、大神神社の社家の家に産まれた大神比義(おおがのひぎ)と言われている。
宇佐神宮の外側に、大神比義を祀る小さな祠がある。
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奈良時代になると、宇佐神宮の八幡大神は数々の神託により朝廷を良い方向へ導いた。
例えば、720年の隼人の反乱において、朝廷軍は隼人に返り討ちにされて宇佐まで退却したが、八幡大神の神託を得て、隼人を討伐することができた。
また、東大寺の大仏の建立においては、八幡大神は当時日本で見つかっていなかった金が採れる場所を聖武天皇に告げた。
この神託により、749年に陸奥国涌谷(現在の宮城県涌谷町)で金が見つかり、752年に東大寺の大仏を完成させることができた。
このため、東大寺の大仏の開眼法要において、八幡大神は御輿に乗って(御輿の始まり)東大寺の門をくぐり、大仏の完成を見届けた。
2002年には東大寺の大仏の1250周年を記念し、宇佐神宮の御輿が東大寺に入った。
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しかし、754年に宇佐神宮の神主と薬師寺の僧行信が呪詛を行ったとして、八幡大神は10年ほど宇佐を追放された(厭魅事件)。
769年、道教は偽の託宣(道教が皇位を継ぐべし)により皇位継承者になろうとしていた。
しかし、和気清麻呂は宇佐神宮に参拝し、八幡大神から真の神託(道教は皇位を継ぐべきではない。排除するべし)を授かり、結果的に道教は失脚した。
当時の宇佐神宮は大尾山にあり、782年に元の位置に遷座された。
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このように朝廷に大いに貢献した宇佐神宮は、地方の神様から国家の神様となった。
なお、宇佐神宮の神宮寺として725年に弥勒寺が建立された。
弥勒寺は明治時代の廃仏毀釈により廃寺となったが、弥勒寺には礎石が残っている。
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平安時代になると、弥勒寺と国家の神様となった宇佐神宮の荘園は九州の3分の1を占めたと言われるほど強大なものとなった。
そして、八幡大神は皇室や源頼朝などが勧請し、全国に八幡社が創建されることとなった。

≪宇佐海軍航空隊と宇佐の歴史≫

戦前の宇佐には、海軍航空隊の基地が設置された。
宇佐海軍航空隊(詳細は史跡②を参照)が宇佐の柳ヶ浦に設置されたのは、1939年のことである。
宇佐海軍航空隊は、基礎訓練を終了した隊員が実戦機を使用して訓練を行う練習航空隊で、艦上爆撃機や艦上攻撃機の操縦や訓練が教育されていた。
しかし、茨城の百里原基地で結成された特攻隊「第721航空隊」の一部が、1945年に宇佐海軍航空隊に移されると、宇佐海軍航空隊は特攻の基地の1つとなった。
1945年4月21日、宇佐海軍航空隊は米軍のB29の空襲を受け、約320人の隊員が殺害された。
この空襲では500ポンド(約227Kg)爆弾が使用された。
爆弾池は、爆弾により生じた大穴に水が溜まり、池となったもので、爆弾の威力を伝えている。
また、空襲では三州国民学校(現在の柳ヶ浦小学校)に爆弾やB29の機銃掃射による攻撃を受けた。
学校のコンクリート壁には、機銃掃射による弾痕が残っている。
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一方、空襲では三州国民学校の校内にあった柳の木や、蓮光寺の山門が奇跡的に生き延びた。
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宇佐海軍航空隊からは、終戦までに193人が特攻で出撃し、うち154人が戦死した。
宇佐海軍航空隊の戦死者を慰霊するため、終戦前に建てられた忠魂碑が若宮神社の境内に移されている。
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【史跡】

①宇佐神宮

宇佐神宮は上宮と下宮に分かれ、一般人は上宮への参拝が許されずに下宮へ参拝していた時代があった。
また、下宮は上宮に供える食事を作る役割を担っている。
上宮には三軒の御殿が並んでおり、宇佐神宮の祭神である三柱がそれぞれ祀られている。
祭神は八幡大神のほか、地元の神様である比賣(ひめ)大神、八幡大神の母である神功皇后である。
八幡造りと呼ばれる社殿の形式で、昼に仕事をするための前殿と、夜に休むための後殿が連結している。
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下宮は三柱が三軒の御殿にそれぞれ祀られている点は上宮と同じだが、社殿が流造りになっている。
また、下宮には大神比義が合祀され、側面には寺院に見られる土塀がある(神仏習合の名残)。
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西大門は桃山風の華麗な構造になっている。
蟇股には、神功皇后が三韓征伐において新羅軍を撃退した際に使用した満珠と干珠が描かれている。
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宇佐神宮の境内の社叢はイチイガシを中心とした原生林になっており、国指定天然記念物になっている。
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宇佐神宮の鳥居は宇佐古来の形式になっており、笠木が上に反り曲り、扁額がない。
なお、宇佐神宮では社殿に近い方から一の鳥居、二の鳥居、、、と呼んでいる。
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宇佐神宮には約30社の摂末社がある。
春宮(とうぐう)神社には八幡大神の末子が祀られている。
応神天皇は末子に天皇を継がせようとしていたが、儒学を重んじた末子はそれを拒否し、自殺したと言われている。
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八幡大神のほかの4人の子供は、若宮神社に祀られている。
八幡大神は菩薩を名乗っているため、軍神と名乗っていながらも殺生が許されない。
そのため、実際に軍神として殺生さるのが若宮神社と言われている。
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亀山神社は宇佐神宮が建立された山の神が祀られ、亀の形に配された岩の上に社殿が建てられている。
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宇佐神宮には、前述の下宮のように神仏習合の名残がいくつか見られる。
例えば、参道に寄進されている灯籠のうち、江戸時代に寄進されたもののいくつかは、蓮の花が付いている寺によく寄進される灯籠である。
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呉橋は、10年に一度、朝廷からの勅使が訪れた際にのみ通ることを許される橋である。
江戸時代初期に豊前国一国を領有した細川氏によって修築されている。
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②宇佐海軍航空隊

宇佐海軍航空隊の史跡は柳ヶ浦駅の南側に多く点在している。
近年は整備が進められ、レンタサイクルが用意される等、史跡巡りをする環境が整えられている。
正門跡は、宇佐海軍航空隊の史跡巡りの拠点施設「宇佐空の郷」内に保存されている。
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パラシュートを整備するための施設(落下傘整備所)が現存する。
外壁には空襲で受けた弾痕が残っている。
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エンジン調整場では、軍用機のエンジンの整備を行っていた。
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厚いコンクリート壁を備えた耐弾式の建物は、受信所または配水所だったと考えられている。
その近くにある付属施設は、タンクの土台2基と考えられている。
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宇佐海軍航空隊の史跡の特徴として、特攻に使用する軍用機を空襲から守るための掩体壕が、多数現存している点である。
殆んどは民家の納屋や車庫に転用されている。
現存する掩体壕では最大の大きさを誇り、中型機を格納する中型掩体壕(下写真)もある。
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城井1号掩体壕は1995年に宇佐市の文化財に指定された。
戦争遺跡で文化財に指定された中では二番目の早さだった。
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軍用機の滑走路は道路に転用されている。
モニュメントには、特攻隊を見送る人の様子が描かれている。
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軍用機を滑走路から掩体壕へ移動させるための誘導路が現存し、道の真ん中に桜が植えられている。
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44211-9 大分県宇佐市(四日市)

大分県宇佐市

2:四日市
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■2020年2月29日(土)

【歴史】

四日市は西本願寺と東本願寺の両方の別院・御坊が隣同士に存在し、珍しい寺内町である。

戦国時代に筑後国地頭の渡辺光が四日市に移り住んだ。
光は佐賀から蛭子神社を勧請し、櫻岡神社を建立した。
光は毎月4日に祭典を開き、神社の前に市が開かれた。
このことから、四日市は市場町としてスタートした。
櫻岡神社は、社殿の懸魚が亀であることが特徴である。
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江戸時代の四日市は小倉藩を経て中津藩の領地だった。
しかし、中津藩小笠原家が悪政により減封されると、1700年に四日市は天領になり、四日市陣屋が設置された。
1720年には四日市陣屋が日田代官所の出張陣屋になった。
四日市陣屋の遺構として、薬医門形式の門が現存する。
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1737年、四日市の真勝寺で内紛(真勝寺騒動)が発生した。
真勝寺は、16世紀中頃に宇佐の土豪の渡辺統綱が出家して顕如の弟子となって庵を開き、その遺志を継いだ子の統述が真勝寺の寺号を教如から賜って建立された寺院である。
真勝寺は勢力を強め、騒動が発生する前までは22の末寺と5000人の檀家を有していた。
ところが、当時の住職の宗順と塔頭との間で争いが勃発し、7年経っても収まらなかった。
真勝寺が属する東本願寺は、内部争いを収められない宗順に隠居を言い渡した。
納得できない宗順は、味方となった11ヶ寺と檀家1300人と一緒に西本願寺に改宗した。
これに激怒した塔頭派は幕府に騒動を訴え、大岡忠相の裁きを受けた。
結果、宗順たち一派の僧侶は遠島や追放の重罪を受けた。
真勝寺も処分を受け、幕府に没収の上、東本願寺に下げ渡された。
真勝寺は東本願寺の別院・御坊となり、真宗大谷派四日市別院(東別院)となった。
幕末までには、豪華絢爛な彫刻を施した山門と、二層屋根の巨大な本堂が建てられ、山門は現存する。
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1868年、四日市では尊皇攘夷派の志士が四日市陣屋を襲撃した事件(御許山事件)が勃発した。
四日市陣屋が焼き討ちされた後、役人が東別院に逃げたため、東別院も巻き込まれ、本堂が焼失した。
当時の本堂の巨大な鬼瓦が1つだけ残っている。
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その後、東別院では明治時代に仮本堂が建てられたが、真の本堂を建てることはできず、この仮本堂が現在の本堂となった。
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一方で遠島や追放に処された西本願寺の僧侶たちは後に許され、正明寺を四日市の東別院の隣に移転し、浄土真宗本願寺派本願寺四日市別院(西別院)となった。
これにより、四日市には西本願寺と東本願寺の両方の御坊・別院ができた。
西別院は御許山事件の被害を受けず、江戸時代に建立した本堂が現存する。
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西別院の境内は、総本山と同様の構造をしている。
そのため、例えば山門も本門と前門の2つで構成されている。
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44203-8 大分県中津市(中津)

大分県中津市

1:中津
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■2020年2月29日(土)

【歴史】

中津は、江戸時代に中津藩の城下町だった地である。

豊臣秀吉による九州平定の後の1587年、秀吉の参謀である黒田孝高は豊前国12万石を与えられ、中津に中津城(詳細は史跡①)を築城した。
これに対して、豊前の国人である城井(きい)鎮房は秀吉の命令(伊予国への転封)を拒否し、孝高に反抗した。
孝高は鎮房を中津城に誘き寄せて謀殺し、合元(ごうがん)寺で待機していた鎮房の家臣を皆殺しにした。
合元寺の土壁は、白く塗っても殺された家臣たちの血が染み出てきたため、赤く塗りつぶされている。
また、合元寺の門の柱にはそのときの刀傷が残っている。
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鎮房を謀殺してから数年後、孝高の子供である長政は鎮房の亡霊に悩まされたと言われている。
中津城の城井神社は、長政が鎮房の霊を鎮めるために建立した。
また、城井神社の境内の扇城神社には、殺された鎮房の家臣たちが祀られている。
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関ヶ原の戦い後、中津藩は小倉藩の領地になったが、中津城は一国一城令でも破却されず、隠居城として主に使用された。
江戸時代初期には中津城が増改築され、城下町が整備された。
合元寺の周辺には寺が次々に設置されて寺町を形成し、城下町の守りの要になった。
寺町は景観が整備されている。
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1632年に小笠原忠真が小倉藩主になると、中津藩には甥の長次が8万石で移封された。
長次は忠真の兄である忠脩(ただなが)の子供だったが、忠脩の死亡時に長次が幼年だったため、宗家は忠真の子孫の流れになった。
しかし、長次の子孫が相次いで悪政を働き、無嗣改易となった。

1717年、中津藩には奥平氏宗家の奥平昌成が10万石で加増・転封された。
奥平氏の出自には諸説あるが、戦国時代は三河国作手(つくで)地方の土豪だった。
1573年に武田信玄の病死後、当時の当主の長昌は徳川家康の長女を正室に迎え、家康の譜代の家臣となった。
奥平氏宗家は廃藩置県まで中津藩を治めた。
菩提寺の自性寺には、中津で死亡した奥平家7代藩主昌猷(まさみち)の五輪塔がある。
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奥平家は総じて蘭学を重んじる家だった。
奥平家3代藩主昌鹿は、母の骨折を長崎大通詞の吉雄耕牛に治して貰ったことで蘭学に傾倒した。
前野良沢を長崎に留学させたが、後に前野は西洋の解剖書を翻訳し、解体新書の出版に貢献した。
中津には医者を務めた家が2軒現存し、両方とも医科史料館として公開されている。
大江家は、中津藩の御殿医を代々務め、外科を得意としていた。
大江家には、地下に造られた貯蔵庫のある調剤室が現存し、薬草園が再現されている。
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村上家は内科を得意とした家で、特に9代当主の田長(でんちょう)は玖珠郡長を務め、大分県初の新聞の刊行や、耶馬溪と玖珠を繋ぐ道路の開通等、医療以外の面でも活躍した。
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中津藩は福澤諭吉(詳細は史跡①を参照)を中心に、多くの偉人が出ている。
諭吉の再従兄弟には、西南戦争において中津隊を率いて西郷隆盛の味方をした増田宋太郎がいる。
増田は1849年に中津藩士の家に生まれ、福沢諭吉(詳細は偉人①を参照)の再従兄弟であった。
増田は尊皇攘夷の思想を有していてが、諭吉と議論した後は自由民権思想に開眼し、村上田長の発行した新聞の編集長を務めた。
福沢諭吉旧居の隣町に、増田の生誕地が公園として整備されている。
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中津出身の小幡英之助は、日本で初めて歯科医の免許を取得した。
英之助の生家跡には、英之助の遺言により、自分の蔵書を公開する図書館(小幡記念図書館)が建てられ、建物が現存する。
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【史跡】

①中津城

中津城は中津川の河口に建てられた海城である。
孝高が中津川の河口に城を築いた理由として、海路となる瀬戸内海にリレー形式の早舟を設け、大阪から3日で知らせを受け取れるようにしたことが考えられている。
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中津城から瀬戸内海に直接船を出せるようにするため、中津城には川に面して鉄門が設けられていた。
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中津城は関ヶ原の戦い後に小倉藩主となった細川氏により増改築されており、石垣には増築された部分が分かるようになっている(線より左側)。
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中津城は22の櫓と天守閣を有していた。
天守閣は萩城を参考に1964年に建てられた復興天守である。
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本丸は上の段と下の段に分かれ、上の段には藩主のプライベート用の御殿が、下の段には仕事用の御殿がそれぞれあった。
上の段と下の段との間には椎木門があり、扇形(R形)に婉曲した石垣があった。
扇形の石垣は一部が現存する。
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中津城は中堀と外堀におかこい山と呼ばれる土塁を築いていた。
中堀のおかこい山は生田門の向かいに一部が現存する。
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外堀のおかこい山は、自性寺の外側等に見られる。
一部のおかこい山の上をJR日豊本線が通るほど、高い土塁である。
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中津城の城下町の出入口は6ヶ所の門に限定され、番人が通行人を取り締まっていた(写真はそのうちの1つである広津口)。
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【偉人】

①福澤諭吉

福澤諭吉は中津藩蔵屋敷があった大阪で生まれたが、幼くして父を亡くしたため中津に移住し、中津で育った。
移住した当時の家は、礎石が再現されている。
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その後、福澤家は空き家になった隣の橋本家へ引っ越した。
その引っ越した茅葺屋根の家が現存し、福澤諭吉旧居として公開されている。
土蔵の二階には諭吉の勉強部屋があり、一階は母が内職をする部屋だった。
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諭吉は大阪の適塾で学び塾頭になると、横浜で英語を学び、咸臨丸に搭乗し海外を視察した。
その後、諭吉は江戸幕府の翻訳方になり、さらに二回の海外渡航を経験した。
諭吉は計三回の海外渡航で得た見聞から、日本人が西洋の学問へ目を向けるよう、「西洋事情」の執筆等で啓蒙活動を行った。
諭吉の著名な著書「学問のすすめ」は、1871年に諭吉が中津に開いた洋学校「中津市学校」は、諭吉が学生に学問の必要性を説くために著したものである。
中津市学校は中津藩家老の生田邸に開校され、門(生田門)が現存する。
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カテゴリ
プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で横浜市在住

【職業】
(平日)2011年より社会人・SE
(休日)旅人(※現在はコロナで自粛中)
 →AWS、歴史能力検定等の資格を勉強中

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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