09201-1 栃木県宇都宮市

栃木県宇都宮市

1:宇都宮
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■2017年9月24日(日)

【歴史】

宇都宮は、神話の時代から現在に至るまで、東北、日光、関東を結ぶ交通の要衝として栄えてきた。
神話の時代には、崇神天皇の皇子、豊城入彦命が、東国平定のため、宇都宮を訪れたと伝えられている。
なお、当時の宇都宮は、北方の蝦夷対策における重要拠点だったと考えられている。
宇都宮には、豊城入彦命を祀る宇都宮二荒山神社が建立されている。
宇都宮の町は、宇都宮二荒山神社を中心に形成されており、宇都宮二荒山神社は宇都宮のシンボルである。
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中世の宇都宮は、宇都宮氏の城下町だった。
宇都宮氏は、関白を務めた藤原道兼の子孫に当たる。
宇都宮氏は鎌倉時代に鎌倉幕府の要職を歴任し、特に、定綱(宇都宮氏8代当主)は元寇襲来時に日本軍の総大将を務めた。
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清巌寺には、定綱が母の十三回忌に建てた鉄塔婆がある。
鉄塔婆には、母が自分を産んでくれたことに最大級の感謝を示す文が刻まれているそうである。
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定綱の墓は、興禅寺にある。
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宇都宮氏は代々文化人が多かった。
例えば、頼綱(宇都宮氏5代当主)は和歌に優れ、藤原定家と姻戚関係を結んだ。
頼綱は、山荘の障子に貼る色紙(和歌付き)を定家に依頼し、ここで選定した和歌が小倉百人一首の原型になった。
墓は前述の清巌寺にある。
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宇都宮氏は16世紀末に豊臣秀吉に取り潰されるまで、宇都宮を治めた。
この間、宇都宮は戦火に見舞われなかったという。

江戸時代の宇都宮は、宇都宮藩の城下町だった。
江戸時代の宇都宮には、奥州街道と日光街道の追分があったため、幕府から最重要視され、宇都宮藩は日光の守護を任された。
そのため、宇都宮藩主は、数々の譜代大名が務めたが、幕末の宇都宮藩主だった戸田氏の治世が一番長かった。
戸田氏、および藩主の歴代婦人の墓は、英巌寺跡にある。
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宇都宮城は、中世の宇都宮氏の居城を近世城郭に改築した平城であった。
宇都宮城は土塁と堀の城で、石垣はなかった。
城は本丸が一部復元され、城址公園となっている。
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街中を流れる釜川は、堀の役割をしていた。
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宇都宮城の御殿は、日光に参拝する将軍の宿泊所、休憩所だった。
特に、2代家忠、3代家光の時代には15回も宇都宮城に立ち寄り、宿泊などした。
そのため、宇都宮城は徳川将軍家、日光と深い関わりがあることから、城址公園には江戸城の楓樹(ふうのき)、日光山輪王寺の金剛桜がそれぞれ植えられている。
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幕末の宇都宮藩は、坂下門外の変の主犯を輩出し、水戸天狗党を案内する等、幕府の反感を買う行動を続け、減封のうえ転封の危機にあった。
しかし、山陵(天皇の墓)修補事業を率先して行い、幕府からの仕置きを回避した。
この行動には、宇都宮の偉人、蒲生君平(詳細は偉人①参照)の影響があったと想像される。
この頃の出来事を記した石碑が、前述の英巌寺跡にある。
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戊辰戦争において、宇都宮藩は新政府軍に恭順した。
しかし、宇都宮は交通の要衝だったため、戦場になってしまった。
宇都宮城は、一度、旧幕府軍の攻撃で落城したが、すぐに新政府軍が奪還した。
宇都宮における戊辰戦争で、新政府軍は旧幕府軍の戦死者の死体を捨て置くよう町の人々に命令した。
しかし、町の人々は命令を無視し、旧幕府軍の戦死者を葬った。
その後、墓は、宇都宮の戊辰戦争で一番の激戦地となった六道の辻に移され、現在に至る。
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宇都宮には、戊辰戦争の戦死者の墓が数多く存在する。
報恩寺には、新政府軍の戦死者の墓と、宇都宮における戊辰戦争の歴史を刻んだ石碑がある。
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一向寺には、新政府軍の墓の他、汗かき阿弥陀如来がある。
汗かき阿弥陀如来は、宇都宮に悪い出来事が起きる際に汗をかくと伝えられ、戊辰戦争でも汗をかいたと伝えられている。
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光琳寺には、旧幕府軍(桑名藩)の墓だけでなく、
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新政府軍(因幡藩、山国隊)の墓が、向かい合って存在しており、珍しい。
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明治時代の宇都宮は、陸軍第14師団を誘致し、軍都としても発展した。
なお、第14師団は満州に渡り、宇都宮の人々の中には、満蒙開拓団の一員として第14師団に付き従って満州に渡った人々が少なくなかった。
ちなみに、満州に渡った宇都宮の人々が戦後に宇都宮に引き揚げ、中国の食文化を伝え、宇都宮の名物となったのがギョーザである。
前述の報恩寺には、第14師団の幹部を務めた軍人の墓がある。
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また、戦時中の宇都宮では、地元の人々が知らない所で、八幡山を掘削し、地下指令部が造られていた。
現在でも許可を受ければ内部に入ることができるそうだ。
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【偉人】

①蒲生君平
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蒲生君平は1768年に、宇都宮城下町の商人、福田家に生まれた。
生家は、現在の宇都宮小幡郵便局にあった。
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君平は、延命院の住職から読み書き等を学んだ。
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その後、君平は鹿沼で学んだ後、江戸へ上京し、各地を旅しながら知識を深めていった。
なお、君平の祖先は蒲生氏郷の弟であり、後に蒲生の姓を名乗った。
君平は、歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、各地の御陵を調査し、「山陵志」を著し、修復の必要性を訴えた。
また、日本で初めて国防についてまとめた「不恤緯(ふじゅつい)」は、後に吉田松陰の松下村塾で教科書として使用された。
君平は「寛政の三奇人」に数えられたが、君平の勤皇思想は幕末以降で大きな潮流となり、明治維新の礎の一部となった。
そのため、明治時代になると、戸田忠友(最後の宇都宮藩主)により、宇都宮の出入口に、君平を人々に知らせる勅旌碑が建立された。
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また、宇都宮には、君平を祭神とする蒲生神社が建てられた。
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君平の墓は、桂林寺にある。
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15202-1 新潟県長岡市

新潟県長岡市

1:長岡
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■2014年9月12日(金)
■2017年9月18日(祝)

【歴史】

長岡は、江戸時代、長岡藩の城下町だった。
1616年、堀直寄を藩主に長岡藩が立藩し、直寄は城(長岡城)、および城下町を整備した。
長岡城の遺構は残っておらず、本丸跡は長岡駅に、二ノ丸跡はアオーレ長岡になっている。
アオーレ長岡は、市役所やアリーナ等が同居する複合交流施設である。
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アオーレ長岡は画期的なデザインになっているだけでなく、ガラス張りにすることで、行政の透明性を上げている。
議場もガラス張りになっており、外部から長岡市議会の様子が丸見えになっている。
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長岡城の堀は、川を利用した。
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1618年、長岡城の完成間近に直寄が村上藩へ移封されると、牧野氏が長岡藩主に就任した。
牧野氏は幕末まで長岡藩を治めた。
牧野氏の墓碑は、悠久山に集約されている。
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なお、墓碑は蒼柴神社の境内にある。
蒼柴神社は、えびす神の他、牧野忠辰(ただとき)を祭神としている。
忠辰は長岡藩第3代藩主で、様々な制度の制定や新田開発などで、名君として名高い。
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また、第12代藩主以降の墓は、榮凉寺にある。
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幕末の牧野氏は、老中や京都所司代を歴任する等、幕府の中枢で活躍していた。
また、河井継之助(詳細は偉人①参照)は、幕府方として、朝廷に建白書(大政奉還後も朝廷に政治力がないため、徳川に政治を任せるよう、お願いする旨を伝えた)を提出する等、活躍していた。
そのため、長岡藩は戊辰戦争において、新政府軍の標的とされた。
河井は、戦を回避するため、小千谷談判に臨むが、決裂し、長岡藩は戦を余儀なくされた。
河井は長岡藩を指揮したが、長岡城と城下町は戦場となり、長岡城は落城し、城下町は焼け野原となってしまった。
榮凉寺には、長岡で戦死した新政府軍の兵士の供養墓がある。
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悠久山には、戊辰戦争で戦死した長岡藩士の墓や石碑が多く存在する。
写真は、最前線で戦った刀隊、槍隊の追念碑である。
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(刀隊)
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(槍隊)
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悠久山には、河井の重臣として活躍した山本帯刀の碑がある。
山本家は、牧野氏の家老を歴任していた。
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悠久山の招魂社には、戊辰戦争だけでなく、西南戦争で戦死した長岡藩士が祭祀されている。
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1870年、敗戦国である長岡藩に、支藩の三根山藩から見舞いとして米百俵が届けられた。
それを受けて、長岡藩の大参事であった小林虎三郎は、米百俵を食糧ではなく、長岡復興のため、教育の資金に充てた。
米百俵により設立した学校が、国漢学校である。
国漢学校は最初、昌福寺の本堂を使用した。
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その後、国漢学校は現在の大手通に移された。
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国漢学校は、山本五十六(詳細は、偉人②を参照)を輩出した坂之上小学校(写真)や、長岡高校になり、現在に至る。
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国漢学校からは、渡辺廉吉など、全国区で活躍した人材を多く輩出した。
渡辺は、法律学、政治学を学び、大日本帝国憲法の制定に携わり、大臣秘書官や行政裁判所評定官などを歴任した。
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小林が米百俵で優秀な人材を輩出した出来事は、米百俵の精神として全国に紹介され、有名になった。
小林の墓は興国寺にある。
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また、悠久山には小林の碑がある。
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戦時中、長岡は空襲で最も大きな被害を受けた地方都市の1つとなった。
長岡は鉄道で複数の路線が乗り入れする交通の要衝で、周辺には工場や油田があったことから、アメリカ軍の空襲の標的となった。
長岡は1945年8月1日の夜に空襲に見舞われ、1486人が死亡した。
長岡の空襲については、長岡駅近くにある長岡戦災資料館で詳細に学ぶことができる。
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長岡には、空襲(戦争)を忘れないために、数多くの史跡が整備されている。
長岡空襲の中心(アメリカ軍にとっての、爆撃目標中心点)は、明治公園だった。
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空襲で長岡全体が火の海になった際、人々は長岡城の外堀として利用されていた柿川に逃げる人が多かった。
しかし、柿川は渇水期で水量が少なく、かつ、川面を猛火が走っていたため、柿川で多くの死者が発生した。
柿川沿いの柳原公園には、柿川戦災殉難地の碑が建てられている。
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また、柿川沿いには平和の森公園が整備されている。
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公園内の平和の像は、空襲で死亡した子供たちを慰霊するもので、平和への強い願いを表している。
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また、前述の昌福寺には、空襲で死亡した人のうち、身元が不明な死者たちを埋葬した戦災殉難者之墓がある。
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戦後、長岡は復興を遂げ、新潟県第二の都市として栄えてきた。
空襲の翌年に開催された長岡市戦後復興祭は、現在も長岡まつりと名称を変えて、続けられている。
長岡まつりの花火は、現在も永遠の平和を願い、打ち上げられている。
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長岡は、戊辰戦争、空襲により、2回も焼け野原になり、近年では中越大地震に見舞われた。
それでも、必ず復興し、中越最大の都市として繁栄を続ける長岡は、不死鳥がトレードマークの、不死鳥の精神を有する地方都市になった。

【偉人】

①河井継之助
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河井継之助は1827年に、長岡藩士(中・下級武士)の家に生まれた。
生家跡は、河井の記念館になっている。
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河井は若いうちから藩主に様々な建言をし、藩政の改革を試みたが、失敗に終わっていた。
しかし、山田方谷に師事し、長崎等を旅したことで高い実力がついた。
幕末の長岡藩に戻ると、河井は数多くの改革を実施した。
河井は財政改革により、赤字の藩の財政を黒字にした。
また、数々の揉め事を適切に裁定し、家老まで昇進した。
戊辰戦争では、軍事総督を務め、一時は落城した長岡城を奪い返すことに成功した。
しかし、新政府軍の弾丸で脚を負傷すると、長岡城は再度落城し、会津へ向かう途中、現在の只見町で死亡した。
河井の墓は榮凉寺にある。
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また、悠久山には、河井の碑がある。
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河井は遺言で、部下の外山脩造に、今後は商人の時代と説き、商人になることを勧めた。
明治時代になると、外山は本当に商人になり、阪急電鉄の初代社長になった。
明治時代の長岡でも商業が盛んになり、石油株式の株式仲買人が城内稲荷神社に寄進した手水鉢には、女性の名前も見られる。
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②山本五十六
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山本五十六(いそろく)は、1884年、長岡藩士高野家の末っ子として生まれた。
生家は山本公園として整備され、生家自体も復元されている。
なお、五十六は後に前述の山本家(山本帯刀の家、戊辰戦争の責任をとり、家が断絶となっていた)を継ぎ、山本五十六となった。
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五十六は海軍で活躍し、海軍航空本部長を歴任し、海軍の次官まで昇進した。
五十六はアメリカへ留学した経験から、アメリカと戦争すれば国力の差で確実に敗北すると知っていた。
そのため、日独伊三国同盟に反対し、アメリカとの開戦の回避、または早期講和に尽力したが、敵わなかった。
しかも、太平洋戦争における連合艦隊司令長官になり、奮闘するも、1943年に戦死した。
五十六の墓は長興寺の、帯刀ら山本家の墓にある。
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2:与板
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◼2017年9月17日(日)

【歴史】

長岡の北西に位置する与板は、江戸時代、与板藩の城下町だった。
与板藩は長岡藩領だったが、長岡藩初代藩主、牧野忠成が、次男の康成に1万石を分知し、立藩した。
康成は、現在の長岡市役所与板支所に陣屋を構えた。
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牧野氏が小諸藩に移封された後、18世紀になると、井伊氏が与板藩主になった。
この井伊氏は、井伊氏の家督を継げなかった井伊直勝の子孫である。
当時の石高は2万石であったが、その後、田村意次の娘を嫁にしたことで、城の築城を許され、平城の与板城を築城した。
与板城は、現在、与板町ふれあい交流センターになっている。
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町中を流れる用水路が、かつての与板城の内堀である。
武家屋敷、内堀、町が平行な町割りであった。
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与板城は戊辰戦争で焼失したが、大手門と切手門が現存する。
大手門は本願寺新潟別院に、切手門は恩行寺にそれぞれ移築されている。
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井伊氏は幕末まで与板藩を治めた。
与板城の裏山には、与板の町の鎮守である井伊神社が建立されている。
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与板の城下町は三国街道の宿場町を兼ねていた。
現在は昔の面影は残っていないが、雪国特有の雁木が一部現存する。
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町は、現代的な雁木のアーケードが続いている。
なお、訪れた日は、江戸時代から続く与板十五夜まつりが行われ、数多くの創作神輿が担がれていた。
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与板には、全国有数の豪商、大坂屋があった。
現在も、大坂屋の別荘「楽山苑」が現存する。
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3:宮内
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◼2017年9月17日(日)

【歴史】

宮内地区にある摂田屋は、江戸時代より醸造の町である。
江戸時代の摂田屋は寛永寺の領地であり、規制が緩かったこと、立地条件に恵まれたことから、味噌、醤油、酒の蔵元が集積した。
また、摂田屋には三国街道が通っており、山古志を通り魚沼へ通じる道との分岐があった。
分岐には、道標を兼ねた「道しるべ地蔵」が立てられていた。
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摂田屋にある光福寺は、戊辰戦争にて長岡藩の本陣になった。
小千谷で談判が決裂した後、河井継之助は本陣に戻り、事の次第を報告し、長岡藩は新政府軍と戦うことを決意した。
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戦時中、宮内駅西側に軍需工場があったため、宮内駅周辺も長岡大空襲で甚大な被害を受けた。
しかし、摂田屋は狙われず、ギリギリのところで延焼を免れた。
延焼が和らいだのは、銀行の建物(現在の、秋山孝ポスター美術館長岡)があったからと言われている。
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県道370号で、道幅を拡大しているところが、大空襲を受けて整備したところである。
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摂田屋は空襲を免れたため、蔵元の古い建物が現存する。
近年では、蔵元の古い建物や醸造関係の食品を観光資源に、観光客の誘致が行われている。

吉乃川は創業が戦国時代で、新潟県で最古の蔵元と言われている。
吉乃川が酒造りを始めたきっかけとなった泉跡には、石碑が立っている。
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越のむらさきは醤油を醸造していた。
現存する建物は、摂田屋の古き良き景観のトレードマークになっている。
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機那サフラン酒本舗は、サフラン酒や、軍向けの葡萄酒により、大正時代頃に巨万の富を成した。
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蔵は鏝絵で彩られているが、カラフルな鏝絵は全国的にも稀である。
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また、1931年に建てられた離れ座敷は、床の間などに珍しい木材をふんだんに使用し、傷みが激しいながらも非常に豪華な造りである。
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15208-1 新潟県小千谷市

新潟県小千谷市

1:小千谷
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■2017年9月16日(土)

【歴史】

小千谷は17世紀に、高田藩の許可を得て創られた町である。
小千谷は越後平野の南端に位置し、信濃川の水運に便利な地であった。
従って、小千谷にはかつて信濃川の川港があり、記念碑が、港の存在を伝えている。
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高田藩が越後騒動により減封になると、小千谷は天領になり、後に会津藩預りとなった。
小千谷の蓮華谷に設けた陣屋が、小千谷の支配の中心となった。
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五智院の地蔵堂の屋根は、小千谷陣屋の屋根を転用したと伝えられている。
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戊辰戦争において、小千谷は越後における戊辰戦争の始まりの地となった。
越後における戊辰戦争は、小千谷市の南部に位置する雪峠で始まり、その後、新政府軍は小千谷に進軍した。
会津藩士が逃亡した小千谷では、町民が無血開城し、新新政を受け入れた。
小千谷に駐屯した新政府軍のもとへ、新政府軍の最大の標的の1つとなっていた長岡藩から、藩主の嘆願書を携えて河井継之助が談判に訪れた。
談判は慈眼寺の上段の間で行われ、上段の間が現存する。
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談判で、河井は新政府軍との戦を回避しようと試みた。
しかし、談判は失敗に終わり、長岡藩は開戦に追い込まれた。
談判が失敗(決裂)した要因として、応対した軍監、岩村精一郎(土佐藩士)が血気盛んな若者で、河井に対して聞く耳を持たず、参謀の山縣有朋、黒田清隆に報告・連絡・相談をしていなかったこと等が推測されている。
慈眼寺には、談判の史実を記念し、徳富蘇峰の撰である岩村河井会見記念碑が立てられている。
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その後、長岡藩、会津藩を中心とした旧幕府軍は、戦の上で重要拠点となる榎峠、朝日山で新政府軍と激しい戦いを繰り広げ、奪取に成功した。
朝日山で戦死した会津藩士は、朝日山の麓の浦柄神社境内に葬られている。
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しかし、その後、新政府軍が長岡城を奪取したことで、榎峠や朝日山は重要拠点としての意味を失い、旧幕府軍はそこから撤退した。
小千谷における新政府軍の戦死者は、船岡公園に葬られている。
(手前が、主に長州藩)
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(奥が、主に薩摩藩)
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船岡公園には、朝日山で戦死した参謀、時山直八の墓もあり(上写真)、また、山縣が時山に追悼の意を表した石碑(下写真)が傍らに立てられている。
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戊辰戦争後、長岡藩士の子供は、小千谷に逃げていた。
前述の五智院の住職は、身分や戦争に関係なく子供が教育を受けられるように、五智院に振徳館を設立した。
振徳館は、日本で初めての公立小学校と言われており、現在は小千谷小学校になっている。
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15226-9 新潟県南魚沼市

新潟県南魚沼市

1:塩沢

◼2017年9月16日(土)

【歴史】

南魚沼市の南部に位置する塩沢は、江戸時代、三国街道の宿場町だった。
三国街道は、高崎から三国峠を経て、長岡を通り、寺泊へ至る街道である。
塩沢宿は、他の旧宿場町のご多分に漏れず、戦後の高度経済成長などで、昔の建物が姿を消し、景観が損なわれていた。
そこで、1999年、塩沢の人々は、子孫の代でも誇れるような、雪国の歴史と文化のある町並みにする事業に着手した。
道路改良事業と町並み整備支援事業の補助金を活用し、11年かけて、雪国の宿場町の面影を残す町並みを再現した。
町並みは、近年、観光の目玉になっている。
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家々は現代的な雁木を備え、雪国らしい家を再現している(写真は脇本陣跡)。
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【偉人】

①鈴木牧之

鈴木牧之(ぼくし)は、塩沢宿で縮を扱う商人の家に生まれた(写真は生家跡)。
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塩沢は典型的な雪国で、数メートルの積雪を記録する年が珍しくない。
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牧之は19歳で江戸に上京し、自分の故郷の雪国のことを話したが、人々に信じて貰えなかった。
そこで、牧之は雪国のことを人々に知って貰うため、家業の傍ら、40年かけて、雪国の風俗などを著書「越後雪譜」に著した。
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「越後雪譜」はベストセラーになり、雪国のことが人々に知れ渡るようになった。
塩沢には、牧之の記念館が設立されている。
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15223-4 新潟県阿賀野市

新潟県阿賀野市

■2017年9月10日(日)

1:水原
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【歴史】

阿賀野市の中心地である水原は、中世には、水原氏が館を構えていた。
特に、水原親憲は上杉謙信・景勝に仕え、軍奉行等を務める重臣だった。(写真は親憲の碑)
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親憲が上杉氏に従って水原を離れた後、17世紀の水原は新発田藩領になった。
新発田藩は農業用水を確保するため、用水池を完成させた。
この用水池が瓢湖である。
瓢湖は、戦後になると白鳥が飛来するようになり、餌付けに成功した結果、白鳥渡来地として、国の天然記念物に指定されるほど、白鳥で有名になった。
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1746年、幕府は領地替えにより水原を天領にし、代官所を設置した。
当時の水原、およびその周辺は米所で、幕府の財源の増加、外様である新発田藩の財源の削減が狙いの1つであった。
現在、残っていた平面図を元に、代官所が再現されている。
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戊辰戦争において、水原代官所は、新発田藩が新政府軍に寝返ったことを知り、代官所に火をつけ、水原から撤退した。
その後、水原には1年間だけ、県庁(越後府)が置かれた。
越後府は、水原代官所の天領の新田開発を支援した市島氏の別邸の跡地に築かれた。
現在は天長山公園になっている。
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15581-1 新潟県関川村

新潟県関川村

■2017年9月10日(日)

1:関谷
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【歴史】

関川村の中心地である関谷は、江戸時代、米沢街道の宿場町だった。
米沢街道は、米沢と日本海を結ぶ街道である。
関谷の米沢街道沿いには、昔の巨大な邸宅が連続して現存し、昔の面影を残している。
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佐藤家住宅、津野家住宅はいずれも茅葺き屋根の豪邸である。
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関谷で一番の豪邸は、渡邉家住宅である。
渡邉家は、江戸時代の初期には村上藩の郡奉行をしていたが、関谷に土着し、廻船業、酒造業で財を成し、大地主になった。
また、米沢藩に積極的に融資し、上杉鷹山の財政改革にも協力した。
渡邉家住宅は街道に面してT字の撞木造りになっている。
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屋根は一部は瓦葺きだが、石置き木羽葺きがメインである。
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渡邉家住宅には、特別名勝に指定されている庭園がある。
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東桂苑は、明治時代に渡邉家の分家が1905年に建てた住宅である。
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関谷は現在の学校制度である六三三制の発祥地である。
1947年、日本は小学校6年、中学校3年、高校3年(六三三制)の制度に移行したが、その前年に関谷の関谷学園で試験的に運用されていた。
関川小学校には、六三三制発祥の碑が建てられている。
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15227-7 新潟県胎内市

新潟県胎内市

◼2017年9月9日(土)

1:中条
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【歴史】

胎内市の中心地、中条は、平安時代、奥山荘の一部だった。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、奥山荘は城氏が支配していた。
城氏は平氏であり、鎌倉時代初期に鎌倉幕府に謀反を起こしたが、幕府軍に敗れ、滅亡した。
なお、この戦では、日本三大御前の1人で、弓の名手である板額御前が大活躍した(吾妻鏡より)。
板額御前は城氏の一族であり、戦の後は生け捕りにされ、鎌倉に送られた。
板額御前は、鎌倉で源頼家(将軍)の前に引き出されたが、その際の立ち振舞いが堂々としていたため、浅利氏(甲斐国の武将)の妻に迎え入れられた。
中条駅近くに、板額御前の銅像がある。
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城氏の後、奥山荘は三浦和田氏が支配した。
鎌倉時代になると、三浦和田氏は領地を北条、中条、南条に三分割した(中条の地名の由来)。
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中条を治めていた一族は、室町時代に中条氏を名乗り、戦国時代には上杉氏に仕えた。
中条氏の室町時代の居館と想定される江上館跡が整備されている。
堀と土塁に囲まれ、出入口は筋違いになっており、外敵を想定した造りとなっている。
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江戸時代の中条は、米沢街道の宿場町だった。
中條宿を北に抜けると、米沢へ通じる米沢街道と、村上へ通じる街道との追分があり、中条は交通の要衝だった。
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2:黒川

【歴史】

黒川は石油を採取できる地層が地表近くにあり、かつ、窪地が存在する地形である。
そのため、黒川では原油が湧き出て凹池に貯まり(臭水坪)、地上で原油を見ることができる。
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黒川は、古代より原油の産出地として知られ、臭水(くそうず)として朝廷に献上していた。
江戸時代までは道具が発達していなかったため、カグマと呼ばれるシダ植物の束で、臭水坪の表面の原油を絡めとり、付着した原油を絞り出す方法で採取していた。
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この方法で採取された原油に火をつけると、不純物があるため、煤が発生する。
それでも、昔は稀少な資源だった。
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明治時代になると、黒川の人々は長崎からイギリス人のシンクルトンを招聘し、地層深くの原油を採掘できるようになった。
シンクルトンの指導により掘削した竪穴井戸(異人井戸)が現存し、現在でも地下深くの井戸から原油を採取できる。
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黒川では明治時代から戦時中にかけてこのような井戸が多く掘られ、原油で栄えた。
現在でも当時に掘られた井戸を至る所で見ることができる。
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現在、黒川の原油の歴史を後世に伝えるため、シンクルトン記念公園が整備されている。
周辺には、前述の臭水坪、異人井戸、多くの井戸がある。
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また、黒川は天然ガスも産出でき、シンクルトン記念公園の近くの地表には天然ガスが湧出している。
そのため、地表に水をかけると、ブクブクと泡が発生する。
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また、水溜まりにはブクブクと発生し、火をつけると燃焼する。
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18442-0 福井県美浜町

福井県美浜町
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■2017年9月2日(土)

【歴史】

美浜駅から東に数Km離れた場所に位置する佐柿は、江戸時代、小浜藩の奉行所が設置されていた。

小浜藩主に就任した酒井氏は、国吉城を廃し、奉行所(佐柿陣屋)を国吉城の麓に設置した。
奉行所跡には、若狭国吉城歴史資料館が新築されている。
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また、奉行所には、藩主が来た際に滞在してもらう御茶屋があった。
御茶屋の跡は発掘が行われたが、現在は雑草が繁茂している。
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国吉城の城下町には丹後街道が通っていた。
酒井氏は城下町に旅人が宿泊することを許可した。
佐柿は丹後街道の宿場町としても発達し、現在でもわずかに昔の民家が残っている。
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佐柿の北端には、丹後街道の往来監視などを目的に、関所がもうけられていた。
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幕末の佐柿には、水戸天狗党が抑留されていた。
敦賀で武装解除した一行のうち、遠島となった100名余りは、小浜藩預りとなり、佐柿に抑留された。
小浜藩では、彼らを准藩士扱いにし、石垣が現存する准藩士屋敷跡に収容した。
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18501-9 福井県若狭町

福井県若狭町

■2013年10月20日(日)
■2017年9月2日(土)

1:上中
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【史跡】

①熊川宿
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上中地区の南東の県境近くに位置する熊川宿は、江戸時代、若狭街道の宿場町だった。
熊川宿は、1589年に、当時の若狭国の領主、浅野長政が創った宿場町である。
若狭街道は通称を鯖街道と呼び、小浜から鯖などの海産物を京に運ぶ街道であった。
熊川宿は小浜から10Kmしか離れていないため、旅籠などの宿泊施設はない。
代わりに、一定の身分以上の人は、問屋で宿泊した(それ以外は野宿)そうだ。
熊川宿は小浜藩領で、近江国との国境がすぐ近くにあった。
そのため、宿場町の東端に番所が置かれていた。
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また、熊川には近郊の村々からの年貢米を収納する蔵(御蔵屋敷)が設置されていた。
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当時は水運がメインだったため、川から御蔵屋敷へ米を運ぶ御蔵道があった。
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熊川宿の町並みは昔の面影を大いに残しており、重伝建に選定されている。
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熊川宿は上ノ町、中ノ町、下ノ町の3つの町から成り立っている。
特に中ノ町は問屋が密集していたが、問屋の民家は左から母屋、付属屋、道具蔵の構成が多かったそうだ。
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熊川の民家の鬼瓦に着目すると、波形の鬼瓦が付いている民家は本家であることが多いそうだ。
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熊川宿の片側には、前川が流れている。
前川に設置されている「かわと」で、熊川宿の人々は前川を生活用水として使用している。
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熊川宿は葛、こんにゃくが名産であるが、収穫したこんにゃくいもは、前川の水流を利用した道具で洗う。
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【偉人】

①松木庄左衛門
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松木庄左衛門は、川を挟んで熊川宿の向かいにある新道地区に、松木家の三代目として生まれた。
地区の出入口(国道から見て)には、生誕地の石碑が立てられている。
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実際の生家跡は山麓にある。
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17世紀前半、小浜藩では小浜城を築城するため、京極氏が領民の年貢を引き上げ、領民の負担を重くしていた。
藩主が京極氏から酒井氏に変わってからも年貢は引き下げられなかったため、近隣の集落の庄屋たちは9年間、年貢の引き下げを訴え続けた。
とうとう、庄屋たちは投獄され、訴えを相次いで取り下げる中、松木だけは取り下げなかった。
その結果、松木は処刑されたが、年貢の引き下げは実現された。
松木は若狭の義民として伝えられ続け、前述の御蔵屋敷跡に、松木を祀った松木神社が建立された。
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18204-4 福井県小浜市

福井県小浜市

■2013年10月19日(土)
■2017年9月1日(金)

1:小浜
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【歴史】

中世の小浜は、若狭国守護を務めた武田氏が支配しており、後瀬山城を根城としていた。
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武田氏は、普段は山下の居館(かつて小浜小学校があった地)に住んでいた。
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江戸時代の若狭は、小浜藩の城下町だった。
1601年、小浜藩の藩主に就任した京極高次は、後瀬山城を廃し、海城の築城に着手し、城下町を築いた。
なお、京極高次の妻は、浅井長政とお市の方の次女、初である。
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初は大阪冬の陣では徳川方の使者として和平を成立させ、夏の陣では豊臣方の使者として和議を申し出ており(失敗に終わる)、双方から信頼されていた。
初は出家し、高次の菩提を弔うため常光寺を建立した。
初の墓は常光寺にあり、女性としては巨大である。
初の墓の周囲を、初の出家後も初に従って出家した7人の侍女と、その養女の墓が取り囲んでいる。
7人の侍女は、養女を取り続けることで、幕末まで(幕府や小浜藩主からの化粧料がなくなるまで)初の墓を守り続けた。
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京極氏2代の後、小浜藩主に酒井忠勝が就任した。
忠勝は、徳川家光の重臣で、大老も務めた。
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忠勝は、高次が築城していた海城(小浜城)を完成させた。
小浜城には3層の天守閣が築かれ、天守台が現存する。
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当時の小浜城は海に面し、本丸は海と川に囲まれていた。
現在は、埋め立てにより、小浜城は海に面していない。
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城跡には、忠勝を祀る酒井神社が建立されている。
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小浜城は川を一部利用し、上級武士の屋敷は堀に囲まれていた。
現在、堀は殆どが埋め立てられているが、三の堀公園には、堀跡であったことを示すモニュメントが立てられている。
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商人の町は、現在の小浜駅の北西部に拡がっていた。
小浜湾に面していたため、商人の町は、北前船の寄港地でもあった。
また、商人の町は陸路でも交通の要衝で、丹後街道が通り、京へ海産物などを運ぶ鯖街道の起点でもあった。
鯖街道の起点は、現在のいづみ町商店街である。
この商店街には、鯖街道に関する展示をしている鯖街道資料館がある。
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酒井氏は幕末まで小浜藩主を務めた。
酒井氏の墓は空印寺にある。
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忠勝の墓の隣には、忠勝の両親の墓もある。
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戦時中、小浜は空襲を受けなかったが、小浜湾に米軍から機雷が投入され、日本の駆逐艦「榎」が機雷により沈没し、犠牲者を出した。
慰霊碑が市街地の西の外れに立てられている。
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また、戦後には、小浜公園山頂の展望台で、男女が北朝鮮に拉致された。
男女は現在は日本に帰国しているが、まだ拉致されたままの人がおり、早期解決が求められている。
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【史跡】

①小浜西組
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小浜西組は商家町と茶屋町で構成され、丹後街道が通っている。
どちらも古い町並みが色濃く残り、重伝建に選定されている。
商家町には、京風の町屋が所々に現存する。

商家町の中にある町並み保存資料館は、大正時代に建てられた町屋である。
手前から母屋、坪庭、蔵の配置で、間口が狭く、奥行き(土間)が長いという、京風の典型的な造りを見ることができる。
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一方、茶屋町には遊郭や料亭が立ち並んでいた。
現在は芸姑が殆どおらず、料亭は写真の料亭播磨のみである。
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小浜の茶屋町の民家は、ベンガラで塗られた細格子が特徴である。
細格子は、格子の間隔が狭いのが特徴で、外から中が見えないようになっている。
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茶屋町では庚申信仰が盛んだった。
小浜では、数匹の猿が1本のひもに丸まって掴まっているところを、一般の民家でも見かける。
猿は魔除けで、悪いことの身代わりの意味を持つ。
なお、小浜のそれは高山のさるぼぼに似ているが、丸まって掴まっているため、さるぼぼとは言わないそうだ。
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蓬嶋楼(写真右)は、武家屋敷の長屋門に酷似した造りで、威厳がある。
土日のみ、内部を公開している。
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旧料亭酔月は、明治時代の初期に建てられた、小浜で典型的な料亭である。
現在は町並みと食の館として公開されており、1階は休憩スペース、2階は和風レストランになっている。
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【偉人】

①梅田雲浜
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梅田雲浜(うんびん)は1815年に小浜藩士の家に生まれた(写真は生誕地の碑)。
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雲浜は、朱子学の一派である崎門学の教えで、勤王愛国の精神を強く持っていた。
また、実践に重きを置き、日本中を周り、尊皇攘夷論を広めた。
しかし、安政の大獄では真っ先に捕まえられ、処刑された。
墓は松源寺にある。
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また、小浜公園には雲浜の顕彰碑が立てられている。
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②山川登美子
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山川登美子は、1879年に小浜藩士の家(分家)に生まれた。
登美子は教育熱心な父により、大阪の女学校へ通い、与謝野鉄幹、与謝野晶子と出会った。
登美子は、晶子と一緒に詩歌雑誌「明星」に参加した。
また、晶子と同じく、鉄幹に惚れたが、本家との縁談に応じ、鉄幹や晶子と別れ、歌壇を離れた。
しかし、夫が逝去したため、学校の先生で身を立てるべく、別の大学に入学し、詩歌の活動も再開した。
ところが、病により29歳の若さで亡くなった。
登美子が晩年を過ごした屋敷は、山川登美子記念館になっている。
登美子の父が銀行を設立する等したため、中々の豪邸である。
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山川登美子記念館には、登美子の辞世の句を刻んだ石碑が立っている。
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登美子の墓は、一家と同じく、発心寺にある。
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登美子の歌碑2首が小浜公園にある。
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プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で東京在住

【職業】
(平日)2011年より社会人・SE
(休日)旅人

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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