36387-1 徳島県美波町

徳島県美波町

■2017年5月6日(祝)

1:日和佐
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【歴史】

美波町の中心地、日和佐は、江戸時代、漁師町だった。
しかし、1807年に郡代所が海部から日和佐に移されると、明治時代まで日和佐が海部郡の政治・経済の中心地になった。
美波町役場に、日和佐御陣屋跡がある。
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幕末の日和佐の郡代には、民政、海防、学校教育に尽力した名郡代、高木真蔵がいた。
日和佐八幡神社に、高木真蔵先生功績碑がある。
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日和佐の漁村が賑わっていた証左として、日和佐八幡神社の本殿の彫刻が精巧かつキレイである。
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また、廻船業を営んでいた谷屋は、寺院のような外観の民家が現存する。
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日和佐は現在、少子高齢化が深刻である一方で、移住者が現れている。
かつての銭湯、初音湯は、IT企業が買い取り、本社に利用している。
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また、古民家を利用した「お宿日和佐」の主人は、日和佐に移住してきたフランス人で、日本人女性と結婚し、子供もいる。
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主人は彫刻や鏝絵が得意で、内部も鏝絵で彩られている。
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2:由岐
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【歴史】

美波町の北東部に位置する旧由岐町は、古くからの港町である。
由岐は、他の徳島県南部の市町村と同様に、大地震による津浪に何度も遭っており、史跡として存在する中では、1361年が最古である。
その年の津浪の犠牲者の供養碑が、由岐中学校の近くにある。
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古典太平記によると、この津浪により雪湊集落が沈没した。
雪湊集落の跡地が、由岐中学校の傍にある大池と伝えられている。
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また、後年には、この津浪の犠牲者の供養碑「貞治の碑」が子安地蔵の堂内に安置された。
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戦国時代の由岐には、由岐有興の居城、由岐城があった。
有興は、南の海部城が落城したのを機に降伏したそうである。
由岐城は、現在、城山公園になっている。
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江戸時代以降の由岐は、港町として在り続け、幕末の阿波沖海戦(詳細は出来事①を参照)を除き、比較的平穏に時を積み重ねたようである。
町並みには、所々に昔の民家が現存している。
徳島県南部沿岸によく見られるミセ造りの民家が、由岐でも見られる。
しかし、由岐は下ミセの脚が高く、腰掛けるためのものではなく、専ら作業するためのものであったようだ。
*ミセ造りの詳細な説明については、徳島県牟岐町の記事を参照。
http://miyaketomoya.blog.fc2.com/blog-category-187.html
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【出来事】

①阿波沖海戦

鳥羽伏見の戦いの翌日、阿波沖では旧幕府軍と薩摩藩が、日本で初めて洋式軍艦による海戦が勃発した。
薩摩藩の3隻の軍艦は、兵庫港に停泊していたが、旧幕府軍の艦隊が兵庫・大阪の海域を警備していたため、身動きがとれなかった。
しかし、鳥羽伏見の戦いが開戦すると、旧幕府軍の艦隊が兵庫港を離れたため、薩摩藩の軍艦は兵庫港を脱出し、薩摩を目指した。
ところが、薩摩藩の軍艦の1隻(翔凰丸)は速度が遅いため、旧幕府軍の艦隊に気付かれ、追跡され、阿波沖で交戦した。
交戦の結果、決着はつかなかったが、翔凰丸は多数の砲撃を浴びて航行不能になったため、由岐に上陸した。
上陸地は、阿波沖海戦小公園として整備されている。
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上陸後、翔凰丸の首脳と、当時由岐浦の見張り、警備を担当していた阿波藩士、米田甚八が、光願寺で会談した。
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会談の結果、翔凰丸の首脳は翔凰丸を爆破し、二手に別れて土佐へ退去した。
翌朝、旧幕府軍が由岐に辿り着き、米田から事情を訊き、一日中薩摩藩士を捜索したが、見つからなかった。
旧幕府軍は捜索を諦め、大阪に帰り、そこで鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の敗北を知った(阿波沖海戦で、旧幕府軍の艦隊は鳥羽伏見の戦いに参戦できなかった)。
由岐は、米田の対応のお陰で戦火に巻き込まれずに済んだ。
米田の功績の碑が、由宇地区に建立されている。
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また、付近には米田の屋敷跡がある。
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36388-0 徳島県海陽町

徳島県海陽町

■2017年5月5日(祝)

1:海部
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【歴史】

戦国時代の旧海部町には海部城があり、海部家が一帯を治めていた。
海部家は、海部川流域で採れる砂鉄で刀を製造し、海部の主産業にした。
しかし、海部家は、京に向かう長宗我部元親の末弟を殺したことで、阿波攻めを開始した長宗我部家の攻撃に耐えられず、敗北し、滅亡してしまった。

豊臣秀吉が四国を平定後、海部城は阿波九城の1つとなった。
徳島藩主蜂須賀家は、海部城に重臣を配し、幕末まで海部は徳島藩の主要な拠点になった。
なお、海部には「御半形人」と呼ばれる、阿波水軍の大将、森村春の旧臣も海部に配された。
海部城後の一角には、森村春と「御判形人」の墓がある。
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「御判形人」の屋敷は、海部城の麓(山下地区)にあったと推測される。
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1633年、海部では海部騒動が発生した。
海部城代の益田長行が、海部の森林を藩の許可を得ずに伐採し、富を得ていたのである(幕府が、土佐藩の野中兼山のように、実業家型の有力藩の家老を粛清し、幕府の安泰を図ったという見方もある)。
その後、海部城は廃城になり、城の東側の麓に郡代所を設置した。
郡代所は1807年まで海部にあり、以降も海部は周辺一帯の中心地として栄えた。
郡代所の跡には民家が立ち並んでおり、奥に小さな祠が建立されている。
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海部は、他の徳島県南部の市町村と同様に、津浪の被害を何度も受けた。
慶長年間(1605)の津浪では100人以上が犠牲になったが、宝永年間(1707)の津浪では犠牲者は1人もいなかった。
大岩供養碑にこれが記されている(右が宝永、左が慶長)。
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また、安政年間の大地震でも津浪に見舞われており、津浪の被害の様子が鞆浦海嘯記に記されている。
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【史跡】

①鞆浦の町並み

海部城に程近い鞆浦は、中世以来の港町である。
鞆浦の民家の特徴は、徳島県南部の沿岸によく見られるミセ造りであり、現在も所々に残っている。
*ミセ造りの詳細な説明については、徳島県牟岐町の記事を参照。
http://miyaketomoya.blog.fc2.com/blog-category-187.html
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鞆浦の民家のもう1つの特徴は甍立(いらかだて)である。
民家の側面を見ると、軒裏に斜めに板を打ち付けている。
甍立により、暴風雨の吹き上げの風を逃している。
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鞆浦にある法華寺の本堂は、彫刻が精巧で美しい。
鞆浦がいかに繁栄したかを物語っている。
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2:海南

【歴史】

海部から海部川を挟んで対岸にある大里地区は、江戸時代、下級武士の町だった。
当時は寒竹の生け垣に加え、迷路のような地割りをしたため、迷路のような屋敷町になっていた。
敵が攻めてきた際は、見通しの悪さを利用し、身を守った。
また、味方は竹垣に槍や火縄銃を差し込み安全に攻撃でき、竹垣を押し広げるとどこからでも屋敷に入ることができた。
明治時代になると生け垣は寒竹からイヌマキに変わったが、所々にイヌマキの生け垣が残り、武家町としての面影を感じることができる。
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36383-9 徳島県牟岐町

徳島県牟岐町

◼2017年5月4日(祝)

1:出羽島
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【歴史】

牟岐町の離島、出羽島は、江戸時代の後期に人々が移住し、漁師町として発展した。

江戸時代が始まった1600年頃、当時無人島だった出羽島に、島番として初めて人が移住した。
写真の建物が、最初に出羽島に移住してきた家で、集落ができてからも番屋として、島の行政が執り行われた。
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その後、1800年になり、徳島藩は出羽島への移住を推し進め、出羽島の集落が誕生した。
1854年、大地震により出羽島は津浪に見舞われたが、住民は山に全員避難し、無事だった。
観栄寺には、津浪のことを記した石碑がある。
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後年、石碑が古くなったため、昭和初期に石碑を新しく建立した。
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津浪を受けてか、明治4年には石積みの大波止が築かれた。
現在も、大部分が現存する。
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出羽島では漁業を主に生業としていたが、暫くは貧しい生活が続いていた。
しかし、大正時代に山村雪太郎が阿波沚を発見すると、漁獲高が向上し、出羽島はカツオ漁、カツオブシの産地として賑わった。
集落の中に、山村雪太郎の顕彰碑がある。
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阿波沚の発見後、出羽島の人々の暮らしは裕福になった。
それを証明するものとして、出羽神社の本殿は、小振りながらも彫刻が細かく、立派である。
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戦後、高度経済成長を経て、出羽島は少子高齢化が深刻になった。
島の人口が100人を切り、島で唯一の小学校が2009年に廃校になった。
跡地には、与謝野晶子の句を引用した歌碑が建立された。

劫初より 造り営む 殿堂に 吾も黄金の 釘一つ打つ

歌には、島の歴史を絶やすまいとする、出羽島の人々の決意が込められている。
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2016年、出羽島の町並みが重伝建に指定された。
また、近年、数人ではあるが出羽島に移住する人が現れ、最近、島では21年振りに赤ちゃんが誕生した。
出羽島では、近年、アート展を実施しており、現在、島の存続に向けて活動が行われている。

【史跡】

①重伝建、出羽島

出羽島の民家の特徴は、ミセ造りである。
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ミセ造りの民家には、上下に折り畳み式の板戸(雨戸)があり、暴風雨の際には閉めきり、雨風を防ぐ。
また、下側の戸(下ミセ)は、通常は台になり、縁台や、漁具の手入れをする作業場になる。
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また、出羽島のミセ造りは1階に格子戸と、装飾を施した欄間を備えている家が少なくない。
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連絡船発着場から一番遠い素鼻地区には、明治時代頃に建てられた、厨子二階の家並みが現存する。
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出羽島の最大の魅力は、昭和時代の暮らしが残っていることである。
出羽島には車、信号がなく、物の運搬は手押し車が主である。
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また、出羽島には水洗トイレが一切なく、全てボットン式である。
そのため、2ヶ月に1回程度、沚尿の汲み取りが行われている。
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4月頃の出羽島ではテングサ漁が盛んに行われる。
訪れた日は、テングサを天日に干す作業が、島の随所で行われていた。
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36204-2 徳島県阿南市

徳島県阿南市

■2014年4月6日(日)
■2017年5月2日(火)~5月3日(祝)

1:富岡
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【歴史】

阿南市の市街地、富岡には、戦国時代、牛岐城があり、阿波守護細川氏の家臣である新開家が城主だった。
しかし、1580年に長宗我部家に屈し、軍門に下った。
牛岐城は平山城であるが、道を通すために本丸と二の丸が分断されている。
二の丸側には、新開家を祀る新開神社が建立されている。
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本丸側は公園として整備され、市街地の人々の憩いの場になっている。
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本丸の頂上には、LEDで造られたキラキラ・ドームがある。
キラキラ・ドームは、阿南がLED発祥の地であることをPRしている。
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徳島藩主に蜂須賀家が就任すると、牛岐城には、蜂須賀家政の甥、細山政慶が配された。
政慶は姓を賀島に改め、牛岐の地名を富岡に改めた。
政慶の墓は、富岡の外れ、桑野川沿いの桂国寺にある。
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牛岐城が一国一城で廃止になってからも、賀島家が徳島藩次席家老を務め、富岡の領主を務めた。
また、富岡は徳島南部の主要な町として発展し、今日に至っている。
町中の本覚寺には、賀島家の墓碑が数基ある。
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2:伊島
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阿南市の離島、伊島は、人口数百人ほどの小さな島である。
伊島は明治後期から終戦まで、潜水器漁業で栄え、朝鮮半島にもよく出漁していた。
當所神社には、伊島に潜水器漁業をもたらし、発展させた粟田徳蔵の碑がある。
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また、伊島には戦時中に瀬戸崎防備衛所が置かれ、常時50人ほどの水兵が駐屯していた。
現在、海軍兵舎が2棟現存するが、雑木林に埋もれているため、行き方を解説する。
伊島に着いたら、島の小学校、保育所を通過し、整備されたトレッキングコースに従って進む。
砂防ダムでできた湖を通りすぎると、旧道と新道との分かれ道になる。
引き続き、新道を進む。
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すると、すぐに左手にコンクリートの塀の跡が見える。
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さらに奥に進むとヘアピンカーブになり、その内側に水槽の跡がある。
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海軍兵舎跡は進行方向から見て右手の下の段にある。
水槽の跡とコンクリートの塀の跡との間、左手にレンガの残骸があり、そのあたりから反対側の雑木林を突き進む。
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すると、海軍兵舎跡に到着する。
なお、右手の小さい方の建物は発電機を備えた機械室だった。
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また、周辺には井戸や水槽の跡、
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さらには、壕が現存しているが、内部は崩落により入ることができない。
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3:椿

【歴史】

旧椿町は、阿南市の南部の沿岸に位置する。
中でも、蒲生田岬の北の岬にある椿泊集落は、江戸時代、阿波水軍の大将を務めた森家の城下町だった。

阿波水軍は、徳島藩主蜂須賀家が所有していた水軍である。
1586年、当時の森家の当主、村春は、土佐の押さえとして椿泊に松鶴城を築城した。
松鶴城は現在、椿泊小学校になっており、石垣の遺構が残る。
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椿泊は幕末まで森家が領主を務めた。
なお、江戸時代になり泰平の世の中になってからの森家の仕事は、参勤交代における船を使用した輸送などであった。
森家の墓は、殆どが道明寺にある。
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一部、第3代領主の墓は佐田神社にある。
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なお、佐田神社には森家の先祖、佐田九郎兵衛が祀られている。
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明治時代以降、椿泊集落では入り組んだ地形を利用した漁業が発展し、漁師町として存続した。
訪れた日はイベントがあり、多くの漁船が停泊していた。
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【史跡】

①椿泊の町並み
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椿泊集落は、海と山に挟まれた細長い敷地にある。
そのため、2階建ての民家の家並みが、1、2Km続いている。
民家の特徴は、飾り付きの欄干で、今でも所々で見られる。
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4:那賀川

【歴史】

富岡の北隣に位置する那賀川は、戦国時代から約250年間、平島公方(阿波公方)が居住していた。

室町幕府10代将軍、足利義稙は、当時の管領であった細川高国に憤り、阿波国に入った。
高国の子供、義冬は、西光寺に入り、平島館を修築して天下を伺った。
これが平島公方の起こりであり、義冬はその初代となった。
平島館跡には、平島公方について詳細に展示している阿波公方・民俗資料館が建てられている。
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また、付近にある木々に囲まれた塚も、館跡の一部である。
平島館は、一辺が約100mほどの広大な館だったと伝えられている。
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義冬の子、義栄は、阿波国守護細川氏、三好氏などの後ろ楯を受けて畿内に進出し、室町幕府第14代将軍になった。
しかし、足利義昭を擁する織田信長に追われ、阿波へ逃げ帰ると、その後は後ろ楯となっていた阿波国守護細川氏、三好氏などが滅亡し、完全に勢力を失った。
義稙・義冬・義栄の墓は、前述の西光寺にある。
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義冬の子孫は、江戸時代も引き続き平島館に居住し、平島公方が続いていた。
特に、8代公方義宜の時代に京都の名儒を招いて子弟を養育してからは漢文学が盛んになり、多くの文人が平島館に出入りしていた(写真はその中の1人、高橋赤水の墓)。
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しかし、1805年、徳島藩主蜂須賀家の平島公方に対する扱いに不満を募らせた9代公方義根は、平島館を退去し、京都へ向かった。
この退去により、平島公方の歴史は終わった。
前述の西光寺には、義栄より後の平島公方の墓がある。
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39301-1 高知県東洋町

高知県東洋町

■2017年5月5日(祝)

1:甲浦
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【歴史】

甲浦(かんのうら)は、土佐国(現:高知県)と阿波国(現:徳島県)との国境沿いに位置する。
そのため、戦国時代には長宗我部氏が四国を平定する際、阿波国に対する押さえとして重要視していた。

江戸時代になると、甲浦は国境沿い、かつ、阿波藩との藩境になるため、土佐藩は甲浦に関所を設置した。
関所は海沿いと山側に設置され、海沿いには東股番所を、
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山側には元越番所が設置された。
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また、江戸時代の甲浦は、土佐藩主の参勤交代にて、大阪へ海路で向かう際の港として重宝された。
当時は藩主の御殿(宿泊所、御休所)が、西股内港の写真の辺りにあったという。
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江戸時代の甲浦は、入り組んだ地形で天然の良港であったことから、港町として発展し、木材などを大阪へ輸出していた。
現在も僅かではあるが、鏝絵、持ちおくり、水切り瓦を有する民家が現存し、当時の繁栄を伝えている。
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また、白浜海岸に近い白浜地区では、僅かではあるが、徳島県南部海岸沿いによく見られるミセ造り(ぶっちょう造り)の民家が現存する。
*ミセ造りの詳細な説明については、徳島県牟岐町の記事を参照。
http://miyaketomoya.blog.fc2.com/blog-category-187.html
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甲浦が輩出した偉人には、南学者、谷時中がいる。
谷時中は江戸時代初期に南学を発展させ、後に土佐藩の基礎を築く野中兼山たちに南学を指導した。
谷時中が生まれた真乗寺には、出生の地の記念碑が建立されている。
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明治時代の始め、佐賀の乱で破れた、明治維新の功労者の1人、江藤新平は、征韓論争で破れた際に同じく下野した板垣退助たちを頼り、高知に逃げ込んだ。
しかし、助けてもらえず東進を続け、甲浦で捕縛された(高知を東進する際、地元の人々は江藤を厚遇したそうである)。
捕縛後、江藤は九州に送られ、処刑された。
その後、江藤は国賊扱いされたが、大正時代に許され、直後に甲浦で「江藤新平君遭厄記念碑」が建立された。
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昭和時代の初期には、2人の文人が甲浦を訪れた。
1人は野口雨情で、雨情が甲浦を訪れた際に詠んだ詩の文学碑が白浜海岸にある。
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もう1人は種田山頭火で、四国遍路の最中に立ち寄った。
山頭火の先祖の出身地、土佐に足を踏み入れたこと、雨でびしょ濡れになった状態で泊めてくれたこと(よそでは泊めてくれなかった)から、感激した心を現す句を甲浦に残した。

波音おだやかな夢のふるさと

山頭火の石碑も白浜海岸にある。
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甲浦では、津浪に備え、西日本では初めての人工地盤が建設された。
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しかし、東日本大震災で発生した津浪の高さなどから、高さが足りないことが分かり、近年新しく人工地盤が建設された。
touyou_023.jpg甲浦(かんのうら)は国境沿いの港町。人の往来が盛んだったため、逸話も多く伝えられています。

39202-2 高知県室戸市

高知県室戸市

■2014年1月11日(土)~1月12日(日)
■2017年5月1日(月)

1:吉良川
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【歴史】

室戸市の北西部に位置する吉良川は、江戸時代から木材、薪を主産業としていた町だった。
明治時代になると、吉良川は土佐藩が保護してきた山の所有権を獲得し、山のウバメカシを利用した土佐備長炭の生産を始めた。
土佐備長炭は比較的白く、硬く(叩くとカンカンと音が鳴る)、火力が強いのが特徴である。
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吉良川の土佐備長炭は、大正時代に和歌山の備長炭の創始者から製法を修得し、さらに備長炭の品質を上げた。
その結果、吉良川の備長炭は品評会で全国一の評価を受け、最盛期を迎えた。
吉良川の町並みは昔の面影を色濃く残し、重伝建に指定されている。(詳細は史跡①を参照)

【史跡】

①重伝建、吉良川
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室戸市は台風銀座と呼ばれる程、台風の常襲地帯である。
そのため、吉良川の町並みには台風への備えが随所に見られる。
例えば、盛り上がった台地が吉良川を縦断しているため、吉良川は上の段と下の段に別れるが、上の段と下の段で屋根の高さが同じになるように町が設計されており、風が建物に当たらず吹き抜けるようにしている。
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吉良川の場合、強風は東から吹く。
そのため、強風で瓦が飛ばないように瓦の向きを工夫している。
北側の南向きの家は右瓦(建物に向かってへの字)、
←←←風
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対して、南側の北向きの家は左瓦(建物に向かって逆への字)になっている。
風→→→
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また、風に対する備えとして、いしぐろと呼ばれる石垣の塀を備えている家が少なくない。
石は、浜石や川原石を使用している。
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木材や土佐備長炭を京阪神地域と交易する際、帰りの船の重さを行きと同じにするため、木材や土佐備長炭の代わりにレンガを積み、持ち帰った。
そのため、吉良川にはレンガを使用した建物が少なくない。
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その他、他の高知の民家と同様に、吉良川でも土佐漆喰と水切り瓦を使用している。
これらも、台風の暴風雨で雨水が建物の内部に浸透しないようにする仕組みである。
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2:室戸

【歴史】

市役所のある室戸地区は、捕鯨や遠洋漁業の基地である室津港があり、漁業の町である。
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室津港は、元々は室津港の内港が一番最初に造られた。
しかし、この内港は、多くの労力と犠牲により造られた。
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最御崎寺(四国霊場第24番札所)の僧侶、最蔵は、土佐藩主の後援を得て、港を開削した。
これが室津港の始まりである。
最蔵の墓は願船寺にある。
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その後、室津港を拡張するため、野中兼山が工事を再開した。
兼山が失脚した後は、兼山の腹心の部下、一木権兵衛が引き継ぎ、工事を進めた。
しかし、工事は困難を究め、最終的には権兵衛が自ら人柱となり、室津港の工事は完了することができた。
権兵衛は一木神社に祀られている。
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3:室戸岬
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【歴史】

室戸岬地区には、その名の通り、室戸岬がある。
室戸岬は近年、世界ジオパークに指定され、世界に名を知られるスポットであるが、歴史も古く、古代には空海が若い頃に室戸岬で修業した伝説がある。
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空海は右の洞窟(神明窟)で修業し、左の洞窟(御厨人窟)で生活したと伝えられている。
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空海は修業の一環で、室戸岬の池で行水を行ったと伝えられている。
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また、空海が衆生の眼病を治すのに使用した池の水が、室戸岬に伝わる。
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室戸岬以外の史跡として、津呂港(室戸岬港)がある。
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津呂港も最蔵が開削し、野中兼山が整備した(失脚前に整備完了)。
津呂港には、野中兼山室戸港開鑿の碑が、地元の青年団により建立されている。
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【史跡】

①高岡の町並み

室戸市は台風の常襲地帯であることは前述した通りである。
しかし、室戸岬から北東に数Km離れた場所に位置する高岡集落は、特に猛烈な暴風雨に見舞われる。
そのため、高岡集落では石垣やコンクリートの壁で家を隠すようにし、暴風雨を防いでいる。
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39302-9 高知県奈半利町

高知県奈半利町

■2017年4月30日(日)
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【歴史】

奈半利(なはり)は、奈半利川の東岸に位置し、古代の官道が通っており、古代から陸・海の交通の要衝だった。
古代には、紀貫之が奈半利を通り、土佐日記で記載の「那波泊」が奈半利であったと推定されている。
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また、土佐国に山内一豊が藩主として入国する際、一豊は野根山街道を通り、奈半利の正覚寺に宿泊した。
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江戸時代、奈半利は参勤交代の宿場町になった。
当時の船では難所の室戸岬を突破できなかったため、土佐藩主は高知を東進し、奈半利から野根山街道を通り、甲浦まで至り、そこから船を使用していた。
奈半利の高札場が、野根山街道の起点になっていた。
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奈半利は木材の集散地であった。
奈半利川の上流には日本三大杉美林の1つ、梁瀬杉があり、それらの木材が奈半利に集められ、海路で各地に運ばれた。
特に、貯木場と森林鉄道ができてからは更なる発展を遂げ、明治から昭和初期まで大いに栄えた。
その頃に建てられた豪商の家は、現在でも随所に残り、多くの建物が国の有形登録文化財に指定されている。
代表例として、土佐の交通王、野村茂久馬の豪邸として建てられた森家住宅がある。
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奈半利の民家の特徴は、石塀である。
奈半利の海岸で採れる丸石(浜石)をレンガのように積み重ね、水が浸透しないように上部に瓦屋根を置いている。
また、明治から大正にかけて腕利きの石工がいたことで、奈半利に石塀が普及した。
石塀には、浜石を丸いまま使用するものと、半割りにして断面を表側に使用するものの2種類がある。
前者の石塀は、改田家住宅などに見られる。
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後者の石塀は、野村家住宅などに見られる。
なお、石塀の右半分と左半分で瓦の向きが異なるのは、伝説の鳥、鳳凰をイメージしているためである。
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その他は、他の高知の古民家と同様、土佐漆喰と水切り瓦が特徴である(例:齋藤家住宅)。
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中には、藤村製糸株式会社のように、通常より多い5段、6段の水切り瓦を備えている建物も見られる。
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39305-3 高知県北川村

高知県北川村

■2017年4月30日(日)

【偉人】

①中岡慎太郎
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中岡慎太郎は、1838年に北川郷の大庄屋の家(柏木集落)に生まれた。
現在、生家が復元されている、
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慎太郎は、幼少の頃から勉学に励み、6歳の頃から島崎塾、17歳の頃から田野学館(郡の藩校)で学んだ。
島崎塾は、北川村の野友集落の南端にあった。
跡地には、小さな石碑が建立されている。
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慎太郎が自宅の柏木から野友、田野学館へ往来するためには、山道を通り、山を1つ超える必要があった。
しかし、慎太郎は休む日なく山を越えたという。
慎太郎が通った山道は、向学の道として整備されている。
野友バス停から柏木バス停まで、健脚で徒歩1時間の道のりとなっている。
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慎太郎は、20歳頃の数年間、庄屋見習いとして村の政治で活躍した。
大震災から村を立て直し、田畑を開墾し、植林を奨励する等、数々の施策で村民の支持を集めた。
なお、向学の道には、植林で植えたと伝わる杉の木が1本だけ現存する。
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その後、慎太郎は田野学館で剣術の師匠だった武市半平太の土佐勤王党に加盟した。
土佐勤王党の弾圧を受け、慎太郎は脱藩し、主に長州藩や公家に近づき、坂本龍馬と共に薩長同盟を成し遂げた。
しかし、龍馬と会談中に何者かに襲われ、慎太郎は龍馬と共に暗殺された。
慎太郎の遺体は京都の霊山護国神社にあるが、遺髪墓地が松林寺にある。
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39204-9 高知県南国市

高知県南国市

■2017年4月29日(祝)

1:前浜
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【歴史】

前浜には、高知空港がある。
高知空港は、かつて戦時中に造られた、高知海軍航空隊の軍用飛行場だった。
軍用飛行場の土地は、、国が三島村の土地を強制的に買い取り、強奪したものである(三島村は消滅し、村民は強制的に故郷を追われた)。
また、高知空港の西側に位置する前浜には、戦闘機を格納するための掩体が次々に建設された。
掩体の建設は、男手は徴兵で取られているため、地元の中学生、婦人、そして、朝鮮から強制的に連れて来られた人々で行った。
掩体は、7基が現存し、地元の団体の働きかけで市の史跡に指定され、保存されている。
田園風景に佇む掩体は、戦争の悲惨さを今に伝えている。
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7号掩体は道路上に強制的に建設され、村民の移動を妨害した。
現在はトンネルになっており、内部を間近に見ることができる。
なお、掩体の上に草が生えているが、これは掩体がアメリカの戦闘機に見つかり、機銃掃射を受けないよう、カモフラージュしていたものの名残である。
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5号掩体は市が土地を買い取り、公園として整備された。
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4号掩体は、現存する前浜の掩体では最大の大きさを誇る。
双発の大型機を格納していた。
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前浜の掩体は、以下の手順で造られた。
a:掩体と同じ盛り土を作り、踏み固める
b:固められた盛り土の上に板、むしろ、セメント袋などを敷き詰める
c:その上にセメントを流し込み、塗り固める
d:固まったら中の土を取り出す
掩体を内側から見ると、壁には手順bで使用された板、むしろ、セメント袋の跡が残っている。

板(踏み固めた足跡付き)
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むしろ、セメント袋
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日本が敗戦濃厚になると、前浜ではアメリカ軍が上陸し、本土決戦することを想定した訓練が行われていた。
実際に体験した方から話を聞いたところ、訓練の内容は、男子は手榴弾を用いた戦車への特攻、女子は竹槍(!)で戦車の車輪を破壊し足留めするものだった。
また、飛行場の周辺にはトーチカが建設され、一部が現存する。
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さらに、高知海軍航空隊の隊員は、50人程が沖縄などへ特攻し、命を落とした。
高知空港の南端には、高知海軍航空隊之碑が建立されている。
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09361-1 栃木県壬生町

栃木県壬生町

◼2017年5月13日(土)

1:壬生
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【歴史】

戦国時代の壬生(みぶ)は、壬生氏が治めていた。
壬生氏の先祖は公家(小槻氏)で、朝廷の雑用を代々生業としてきたという。
壬生氏の墓は、常楽寺にある。
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また、壬生氏が先祖の小槻氏を祀った神社に、雄琴神社がある。
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江戸時代になると、壬生は壬生藩の城下町となった。
壬生藩の城下町は、日光へ通じる日光西街道の宿場町を兼ねていた。
そのため、壬生城の御殿は日光へ参拝する将軍の宿泊所に使用された。
壬生城は城址公園として整備され、公民館等の施設があることから、市民の憩いの場になっている。
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城には天守閣や石垣はなく、土塁と空堀の城だった。
城の遺構としては、堀の一部と土塁の一部が現存するのみである。
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また、城下町にある興光寺は、徳川家光の遺体を江戸から日光に運び埋葬する道中、遺体の安置所になった。
そのため、興光寺には葵の紋の使用が認められている。
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壬生藩は将軍参拝の際に宿泊所となることから、藩主には将来有望な譜代大名が任命された。
そのため、江戸時代前期は目まぐるしく藩主が代わったが、1712年に鳥居氏が壬生藩に移封されると、幕末
まで鳥居氏が壬生藩主を務めた。
鳥居氏累代の墓が、前述の常楽寺にある。
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なお、戦国時代の鳥居氏は古くから徳川氏に仕え、関ヶ原の戦いでは伏見城に立て籠り、西軍の大勢の兵を1ヶ月引き受けた。
その直後、鳥居元忠は自刃するが、その際の流血で赤く染まった畳は、江戸城の伏見櫓の階上に置かれ、元忠の忠義が後世でも模範とされた。
血で染まった畳は、現在、精忠神社の境内に埋められ、畳塚となっている。
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なお、精忠神社は元忠を祭神としている。
元忠の徳川氏への強い忠誠心が、社名に表れている。
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壬生藩に移封されたときの鳥居氏の当主、鳥居忠英は、壬生藩に2つの大きな恩恵をもたらした。
1つ目は干瓢である。
干瓢は壬生藩の名産になり、壬生藩の経済を支えた。
現在では、干瓢は栃木県の名産になっている。
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2つ目は藩校である。
忠英が1713年に藩校「学習館」を開設すると、後に藩校で蘭学が教えられるようになり、明治初年の壬生には6人の蘭方医が病院を構えるほど、蘭学が盛んな町になった。
壬生のメインストリートは、かつて蘭方医の病院が林立していたことから、蘭学通りと名付けられている。
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蘭学通りでは、電線が地中に埋められ、景観が良くなっている。
また、壬生の蘭方医の1人、石崎正達の五間長屋など、古民家がわずかに現存する。
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壬生の蘭方医の1人、齋藤玄昌は、栃木県で初めて種痘を実施した。
また、黒川河岸で、栃木県では初の人体の解剖を石崎と実施し、解体正図を著した。
墓は前述の常楽寺にある。
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幕末における壬生藩は、前述の雄琴神社の神主が周辺一帯の神主を束ね利鎌隊を結成する等、勤皇の立場を取り、新政府軍に味方した。
戊辰戦争において、幕府軍はそのような背景があったため、壬生を避けて通り、宇都宮へ北上し、宇都宮を占領した。
その後、幕府軍はその勢いのまま、壬生を占領しようと進軍したが、壬生城には新政府軍が備えており、壬生町の安塚で衝突した(安塚の戦い)。
最初は幕府軍が優勢だったが、新政府軍が挽回し、そのまま戦いは宇都宮、今市に移った。
前述の興光寺には、安塚の戦いにて戦死した新政府軍の兵士16人の墓(官修墓地)がある。
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プロフィール

ザック

Author:ザック
【出身・住所】
茨城県水戸市生まれ
茨城県石岡市八郷育ち
現在は仕事で東京在住

【職業】
(平日)2011年より社会人・SE
(休日)旅人

【趣味】
 旅、日本地理、日本史(特に江戸時代以降)

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